《一言半句》「千年の都」に文化庁移転―地方創生へ”国引き”で結集しよう
昔、小さい国土を嘆いた出雲国の命(みこと)、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)は、大きな鋤(すき)を使い、「国来(くにこ)、国来」(国よ、こっちへ来い。こっちへ来い)と言って、太い綱で海の向こうにある土地を引き寄せ、出雲に加えた。「国引き神話」を始め出雲に伝わる神話などが記載された『出雲国風土記』にあるそうだ。
出雲市長を務めた岩國哲人さんは「出雲が他国の文化圏への侵入や侵略されたわけではない」「自らの力で他の文化圏にこっちへ来いと引き寄せた」と、『鄙(ひな)の論理』(岩國、細川護熙共著)で解説している。
現代の「国引き」は地方(鄙=いなか)が中央政府に対し、発想転換を求める国造りである。日本は首都東京に人口と権力が一極集中している。都道府県や市町村が長年、「国来、国来」と国に叫べども、逆に集中の流れは止まらない。
ところが、令和5年3月に「国引き」とまで言い難いが、国がほんの少し動く出来事があった。文化庁が中央省庁で初めて、霞が関から地方に移転、「千年の都」京都での業務を開始した。全国紙ではさほど大きな扱いではなかったが、地元紙はじめ地方紙の多くは一面扱いだった。「やっと動いた」と思う人もいれば、「それがどうした」「京都へ引っ越しただけでしょう」といぶかる人がいるに違いない。そこには「地方と中央政府・東京との闘い」という長い歴史がある。
2014(平成26)年、当時の安倍首相が地方創生を掲げた。日本は人口急減社会に突入し、やがて人口が1億人を割り、東京の人口だけが増え続ける。ことに地方の若者の流出が続けば、2040年には「全国の市町村の半数が行政サービスを続けるのも困難な事態を招く」と民間の有識者組織「日本創成会議」(増田寛也議長)が予測、消滅可能な都市を公表し、「地方消滅」が現実になった。この時、政府は内閣に地方創生大臣を設けるなど、省庁や企業の地方への移転に旗を振った。
実は20年前の1992(平成4)年、一極集中の解決策として国会が動いたことがある。「国会等の移転に関する法律」が成立し、首都機能の移転構想もあり、具体的な青写真さえ報じられた。
この時代、「中央集権から地方分権へ」と全国知事会や地方自治体、地方議会が叫び、行動した。富山県の中沖豊知事は「国から権限を分けてもらうのではなく、地方に集中させる」「外交、防衛、法務などは東京に残し、あとは地方に任せてほしい」と真面目に議論し、地方集権を議会でも発信した。
霞が関の一角、文化庁の移転先となった京都は「千年の都」と呼ばれる。西暦794年の平安遷都、つまり天皇陛下が住む都が奈良から京都に移った。それから千年の時を経て、1869(明治2)年、天皇は東京に移り、京都は名実ともに都の座を東京に譲った。この時、明治政府は地方を支配する中央集権国家を構築した。
天皇は不在だが、京都は霞が関の小さな一角、文化庁を誘致ではなく、奪い取ったとも言える。地方は熱望する地方分権と分散に向け、これを「幕引き」ではなく、「国引き」に再結集したい。
(S)