《一言半句》日本一安価な「電気王国富山」ー魅力を失う工業県
富山県は元々、農業が盛んだが、日本海側では珍しく、製薬業やアルミ産業が盛んな工業県だ。県外の企業進出も多い。当然、大量の電気を使う工場は北陸電力に頼る。その本社は金沢市ではなく、富山市にある。「今さら何を」と思うだろうが、「電気料金大幅な値上げ」のニュースを聞き、「電気王国富山」と呼ばれる歴史を振り返った。
文明のシンボル、電灯が灯されたのは1894(明治27)年、富山市内で開かれた博覧会場。北陸で初めての出来事だった。立役者は薩摩売薬で財を築いた富山市内の密田家の青年、密田孝吉。その青年に協力したのが同じ売薬関係の金岡又左衛門。3年後の明治30年、北陸電力の前身、富山電燈会社が設立され、金岡が初代社長に就いた。2人は「電気王国富山」の礎になる。
最初の電灯は電池による電球点灯だったが、その後、発電所のお陰で電気は家庭の電灯に利用されていく。当時、東京や大阪など先進地の発電の中心は、火力によるものだった。
密田は京都市が琵琶湖の水を利用した疎水式発電を始めたことを知り、火力ではなく、水力発電を始めようと方向転換した。情報収集と現地調査を重ね、地形や文献を読み漁り、水力にたどり着いたのだろう。
最初の建設地は富山市(旧大沢野町)塩地区の神通川水系の大久保用水。着工からわずか1年余りで、発電所第1号の大久保発電所が完成、送電にこぎ着けた。富山電燈会社は発電所を増やし、富山電気、日本海電気と改名し、北陸電力へと成長した。
「電気王国富山」を支えたのは水力発電の源、立山連峰や飛騨の山々から富山平野に流れ込む数々の急流河川だ。早くから、余った電気を企業、工場に利用してもらおうと、金岡ら関係者が買い手企業の誘致に動いた。大正時代に入り、県内初の重工業の工場、電気製鉄株式会社の工場(後の日本鋼管富山電気製鉄所)が伏木地区に進出した。今も操業する伏木、岩瀬地区の多くの工場は京浜工業地帯から進出したのだ。
戦後の高度経済成長期には富山新港が開港し、県が後背地に企業を誘致し、その後、県内の各地に工業団地が造成された。水力発電所の建設によって、富山県は「豊富な電力と安い電気」をキャッチフレーズに企業と人を呼び、工業県へ発展した。
北陸電力は10月30日、電気料金の平均45.84%の値上げを発表した。大手10社で最大の値上げ幅という。石炭高と原発が動かないことを理由に挙げた。一般家庭や小規模な工場、商店などが契約する規制料金が対象。オール電化の家庭や法人向けの自由料金も来年4月に引き上げる。
北陸電力の電源構成は新料金ベースで64%が石炭で占められ、水力、新エネルギーは21%という。同社の強みは先人が育てた水力発電だったが、原発に走り、休止した後、地球環境を悪化させ、コスト高の石炭に頼った。
水力に加え、地熱や風力、太陽光、バイオマスなど多様な電力がある。必要な電気は地域で賄う。ことさら電力会社の責任ではなく、富山県はもっと多様な電源開発に向き合うべきだろう。
過去も未来も、電気・電力は自然に恵まれた富山県の成長の源だと歴史が語る。このままでは富山の魅力を失い、「電気王国富山」が泣く。
(S)