《一言半句》赤い羽根共同募金―100円玉は値千金
秋晴れの10月1日、3年ぶりに射水市の新湊曳山(ひきやま)祭りが開催されると聞き、放生津八幡宮を訪ねた。コロナの感染拡大が落ち着き、市民らが大勢、八幡宮を目指し、楽しそうに沿道を歩いている。神社入口までたくさんの露店が並び、その先で「赤い羽根の共同募金お願いしまーす」と、大きな声が聞こえてきた。共同募金の幟(のぼり)が立ち、赤いジャンパー姿のボランティアらが首から募金箱を下げる。秋の風物詩に久しぶりに出合い、こころがあったかくなった。
共同募金の由来を調べてみると、1947(昭和22)年10月1日、第1回共同募金が行われたそうだ。当時、戦争の打撃を受け、困窮者や身寄りのない戦争孤児が大勢いた。社会が混乱する中、国の対応もままならない。弱者を守る民間の社会福祉施設は資金が乏しく、運営ができない。まだ国や企業にも力がなかった。そこで米国の共同募金活動を参考に発足した民間団体、「社会事業共同募金中央委員会」が中心になって全国規模で募金運動を展開した。
募金運動の精神は「困った時はお互い様」。まさに〝国民運動〟が広がり、5億9000万円の募金・寄附金が寄せられた。現在のほぼ1500億円に相当するという。以来、毎年翌年の3月31日まで市町村共同募金会が主体となって活動している。
共同募金や慈善救済事業の組織化の源流を探ると、「日本の資本主義の育ての親」と称される実業家、渋沢栄一にたどり着く。「会社が豊かでも、国民が貧しくては国が豊かとは言えない」と、率先して慈善救済事業に取り組んだ渋沢は1908(明治41)年、中央慈善協会を設立。民間と国との調整役を果たした。やがて1951年、中央慈善協会をモデルに中央社会福祉協議会、民間の社会福祉法人、都道府県と市町村社会福祉協議会が設立されるなど、共同募金会と共に福祉基盤のすそ野が広がった。
赤い羽根共同募金活動も、街頭に加え、形態が多様化した。世帯対象の戸別募金や法人(企業・事業所)募金、職域募金、イベントの際に募金箱を設けるイベント募金、学校募金など多彩だ。最近はインターネットから寄付できるネット募金もあるそうだ。
そんな中、射水市共同募金会などによると、カプセル募金、愛称〝ガチャガチャ募金〟が人気という。大きなカプセルの中に赤い羽根募金PRチラシと一緒に缶バッジやハンドタオル、風船などが入っている。100円玉1個を入れると、出てくる仕組み。楽しみながら協力してもらおうと役所やイベント会場に設置している。
市町村募金会に集まった募金はほぼ当該の市町村の福祉活動に充てられる。少子高齢化が進む中、高齢者や子育て、ひとり親、障害者、生活困窮者、引きこもり支援など福祉需要が増大する。一方で福祉予算は膨らみ、100円玉の価値が重くなる。
放生津八幡宮での募金の様子を眺めていると、結構、親子連れが募金箱に寄ってくる。父親や母親の財布から出した100円玉を子どもがうれしそうに募金箱に入れていた。子ども2人なら2個だ。こころがこもった値千金の100円玉に感謝。子どもらの未来に幸あれ、と祈った。
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