《一言半句》松村謙三に学ぶ-政治家と政治屋 

 お盆過ぎの8月18日、南砺市刀利(とうり=旧福光町)の刀利ダムで水神(すいじん)祭が行われた。旧福光町やダムの関係者らが集まり、ダム建設に尽くした同町出身の政治家(衆院議員)、松村謙三の功績をしのび、水の恵みに感謝した。

 松村が育った福光など県西南部には、石川県境の大門山を源流とする小矢部川が流れる。だが、水量は飛騨を源流とする東の庄川に比べ、半分にも満たない。県西南部一帯は江戸時代に加賀藩の命で開墾されるが、水量が少なく、上流で取り入れると、下流まで回らない。水騒動が絶えず、住民らは干ばつと洪水の闘いに明け暮れていた。

 松村は若い頃からこの難題を解決するには小矢部川上流でダム建設が不可欠と考え、地元民の結束に加え、ダム湖に沈む村人たちの説得と暮らしの補償に長年、心血を注いだ。県境の山あいに念願の刀利ダムの完成式を挙げたのは、1967(昭和42)年5月22日。松村は84歳。半世紀をかけた大仕事だった。

 松村は政界引退直後に高齢を押して中国を訪問した。日中国交回復は松村のライフワークだった。戦後いち早く、平和日本を築く上で体制の異なる隣国の大国、中国との交流が不可欠と考え、要人らと交流し、パイプ役を務めた。1972年9月29日、歴史的な国交樹立、日中共同声明に調印したのは佐藤栄作に代わり、首相になった田中角栄の決断だった。松村は国交樹立の表舞台に立つことはなかったが、一貫して日中の細い水脈を粘り強く保った。まさに友好の井戸を掘った政治家であった。

 日中国交回復30周年を迎えた2002(平成14)年4月。中国ナンバー2の全人代常務委員長(国会議長)の李鵬氏が来日、記念式典に臨んだが、地方では唯一富山県を訪れた。綿貫衆院議長や中沖県知事ら県内関係者と懇談したが、李氏の来県目的は日中平和の礎を築いた恩人・松村のふるさと、福光町の松村記念館を訪れることにあった。

 李鵬氏は記念館内の松村の銅像の前で、日中相互の恒久平和と地方自治体同士の相互交流促進が重要だと熱く語った。50年目の今日、日中間は危機的状況だ。

 松村は1969年、福光町の中央公民館で引退表明した。「―思いますに私が政界に身を投じて以来、40数年と相成りました。この間、私が今日あるのはひとえに皆様のご懇情によるものとして深く感謝いたしております。この選挙区で私が他事に煩わされることなく、専心、政治に没頭し、一筋に信念を貫いてやって参ることができました―」。

 他事とは週末に地元へ戻り、選挙を念頭に顔出しに奔走することだろうか。票田を守る地元民を信頼し、天下国家のため働けたと、感謝した。

 「政治家は次の時代のことを考え、政治屋は次の選挙のことしか考えない」―松村の生き方を振り返り、戦後、活躍したコラムニストで劇作家の高田保(故人)の名言を思い出す。現下の日本は日中関係やウクライナ情勢、コロナ下の社会経済の立て直しなど難問山積だ。一方で信者の家族を長年、苦しめる旧統一教会から当選のため票をもらっても、白を切る国会議員や首長、地方議員が大勢いる。「彼らは本当に政治家か」と高田に問えば、間違いなく、「政治屋に過ぎない」と断言するだろう。

(S)