【新刊】「越中福野の詩百篇-発酵と歩んだ山田三代」山田正彦著
銘酒「詩百篇」と酵素化学
かつて南砺市福野に「詩百篇」という銘酒があった。銘柄は唐の詩人杜甫が酒の友8人を選んで歌った古詩「飲中八仙」の中で李白を表した「李白一斗詩百篇」という描写からとられた。昭和初期には中央醸造新聞の銘柄番付で小結に選ばれ、全国の各種品評会や共進会、博覧会に出品して、優良、特賞、推賞を受けている。
醸造元の「詩百篇酒造」は当主が代々、十村や衆議院議員、県会議員、福野町長をつとめた名家の山田家が営み、店と酒蔵の両方が町中にあったことから、酒はもちろん当主一家や蔵人、従業員も地域の人々に親しまれていたという。1700年代に始まった山田家の酒造りは休止期を挟んで1892(明治25)年に再興され、1960年代まで続いた。
その詩百篇酒造の歴史を山田家3代の歩みを通して11代当主・山田正彦氏がまとめ、このほど刊行された。
同家の系図をたどると、旧制富山高校設立に貢献した馬場はる、日中国交正常化に尽くした政治家の松村謙三、富山市長や衆議院議員を務めた石坂豊一を輩出した石坂家、薬種業に始まり電力事業や銀行業などを手掛けてきた金岡家など、富山県の近代化に力を注いだ名家につながる。
また富山県立大学創設準備委員から同大学生物工学研究センター所長を務めた10代当主・山田秀明の足跡も記され、山田家のみならず近世から現代の富山の歴史を垣間見ることもできる。
山田家の敷地内には1929(昭和4)年に建てられた洋館が今も残っている。モダニズム建築の先駆けとなった富山県生まれの建築家吉田鉄郎の設計によるもので、山田家8代・正年の二男で股関節カリエスにより若くして亡くなった正廣の療養のために建てられ、正廣の親友で民芸・木工家の安川慶一が1938年に1階を改修した。館内には正廣と親交の深かった彫刻家の松村外次郎、渡辺義知の作品や吉田鉄郎の兄、五島健三の絵画が飾られている。
吉田が設計した現存する建築物としてきわめて貴重だが、国や自治体の元で建物の存続を図るには、洋館の歴史について不明な点が多かった。そこで2020年から著者自ら調査を始めると、洋館のみならず詩百篇酒造全体の歴史が改めて浮かび上がり、この本を記すきっかけになったという。
富山を国際的なバイオテクノロジー研究拠点に
特に紙幅が割かれているのは9代・秀徳と昨年7月に亡くなった10代・秀明に関する記述である。正廣の夭逝により跡継ぎがいなくなった山田家は正廣の姉・睦子の夫の秀徳を養子に迎えた。早稲田大学理工学部で学び東京電燈に勤務していた秀徳に酒造りの知識はなかったが、酒造メーカーにとって苦しい時代だった第2次世界大戦後の混乱期を乗り越え、酒造りの現場に入って機械化を進めるなど8代正年とともに詩百篇酒造の改革に努めた。
しかし山田家が原料の酒米を得る基盤としていた土地は農地改革によって失われ、投資の柱としていた福野の繊維産業は衰退したうえ、昭和30年代の酒造業界には大企業化の波が打ち寄せており、小規模の酒造業者が事業を存続するには厳しい先行きを余儀なくされる。
さらに、10代目となる秀明は京都大学で博士号を取得した後、ハワイ大学に招聘されて研究の道を進んでいたこともあり、秀徳は余力を残しながらの店じまいを決意する。膨大な書類作成と手続きにより店と家屋の整理が行われ、1966(昭和41)年に最後の株主総会が開かれた。
詩百篇酒造を継ぐことのなかった10代・秀明だが、研究者として醸造の道を究める。生物学と化学を融合させて酵素反応を追うなど、当時としては珍しい手法を取り入れた微生物酵素研究で産業界にも大きく貢献。京都大学農学部の発酵生理及び醸造学研究室の教授を務め、研究室には企業研究者を積極的に受け入れるなど、酒造メーカーやバイオ企業、化学企業とも広く付き合った。
京都大学退官後は富山への貢献も大きく、富山県立大学在任中は福野の洋館に住みながら大学へ通い、酵素国際会議の誘致や博士課程の開設などに尽力し、富山県を国際的なバイオテクノロジー研究拠点として育てた。
著者は現在京都市に在住。京都大学大学院工学研究科で有機化学・生物化学を修めたのち、カネカに入社し、ハーバード大学医学部に留学。帰国後は同社初の高度専門研究者として12か国と共同研究を行う。仕事のかたわら定期的に福野に通い、洋館の調査研究を進めてきた。
酒蔵や洋館の内部や外観、詩百篇のカラフルな引札(公告ビラ)など口絵写真も豊富で、巻末には付録年表も掲載されている。A5版、定価2,000円+税。