映画「NORIN TEN 稲塚権次郎物語」がDVDに-「緑の革命」は遠い国の昔の話ではない

 この地球には約79億5,400万人(UNFPA 世界人口白書2022年版)の人々が暮らしているが、19~20世紀の200年余りで人口は一気に6倍となり、国際連合の統計では今世紀半ばには、ほぼ90億人に達すると予測されている。

 こうした爆発的ともいえるこれまでの人口増加において、特に1940~60年代のアジアを中心とした各地の飢餓を救ったのが、特定品種の育成により小麦など穀物生産量の増加を可能にした「緑の革命」だった。

 現在世界の小麦生産量は約7億7,000万トン(米国農務省穀物等需給報告2022年7月12日発表)で、1950年頃は1億トンだった。小麦生産量の増加がなければ増え続けてきた人口は養えなかっただろう。  

 その緑の革命に至るまでの、品種改良の中心的役割を担ったのが、稲塚権次郎が作出した「小麦農林10号」という小麦品種である。

 権次郎は富山県城端町(現南砺市)に生まれ、東京帝国大学農科大学実科卒業後、国立農事試験場に就職し岩手の農事試験場に赴任していた1935年に農林10号を生み出した。

 農林10号は背が低く、耐倒伏性の多収品種として公式に登録されたが、時代は第2次世界大戦へ突入し、権次郎は日本が中国に設立した華北産業科学研究所の北京農場長として赴任。農林10号は日本で高い評価を得ないまま戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の農業顧問で農学者のノーマン・ボーローグ氏の手で米国に渡ることになった。

 ボーローグ氏が農林10号とメキシコの品種を交配して生み出した小麦が世界で栽培されるようになり、生産性が大幅に向上。人口増加に食糧供給が追い付かず飢饉が危ぶまれた1960年代のインドやパキスタンの食糧増産にも貢献し、ボーローグ氏は「緑の革命」の貢献者としてノーベル平和賞を受賞した。

 権次郎は戦後も自身が生んだ小麦が海を渡ったことを知らず、日本に戻った後、金沢農地事務所に勤務し、定年後は故郷で圃場整備に尽くした。71歳の時に思いがけず、農林10号が世界の食糧危機を救っているという知らせが届き、その13年後に石川県で開かれた日本育種学会でボーローグ氏と生涯に一度だけ会っている。権次郎が1988年に91歳で亡くなった2年後にボーローグ氏は南砺市の生家を訪れ、その功績に大きな賛辞を贈ったという。

 その稲塚権次郎の生きざまは「世界の食糧危機を救った男-稲塚権次郎の生涯」(家の光協会、千田篤著)として1996年に出版された。2015年には数多くのドキュメンタリー作品を手掛けてきた稲塚秀孝氏によって「NORIN TEN 稲塚権次郎物語」として映画化され、このほどDVDとして発売・レンタルされた。

 ウクライナへのロシア侵攻により、世界的な規模で小麦などの深刻な食糧不足や食糧価格の高騰が起きている。「緑の革命」は遠い国の昔の話に映りがちだが、著者の千田篤氏は「今こそ、自分個人の功績には関心を示さず、常に地域や国、世界全体の利益のために作物の育種に取り組んだ稲塚の事績をふり返る意義がある」と話している。多くの人に見てほしい作品である。

 千田篤氏は「実業之富山webマガジン版」でエッセイ「とやまの見え方」を連載中。