《一言半句》温故知新―富山薬業の足跡と矜持を忘れるな
「先用後利」。県内では「せんようこうり」と音読みで一般化しているが、正しくは「用(よう)を先(さき)に利(り)を後(あと)に」と漢文調に読む。薬を使ってもらい、再訪した1年後に代金を頂く。
消費者との信頼を深め、全国に普及した越中富山の薬業精神である。業界をリードしてきた富山市の廣貫堂の社史にも、この言葉が明記してある。同社は売薬業をルーツに発展し、ジェネリック医薬品(後発薬)にも参入、創業から150年の歴史と今日の地歩を築くも、新興の日医工同様、不正製造に手を染めていた。
温故知新。故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る。売薬のルーツを探ってみた。富山城址公園に富山藩2代目藩主・前田正甫(まさとし)公の銅像が立っている。
説明板には、参勤交代で登城した江戸城で正甫公が、激しい腹痛を訴えたある大名に懐中に常備していた「反魂丹(はんごんたん)」をすすめたところ、たちどころに治り、その効能に驚いた諸大名から自領内にも行商してほしいと頼まれた。それが諸国に行商させた、富山売薬の始まりであるという伝説⋯とある。
正甫公は300年以前の人である。しかし、売薬の起源などは明治時代に入って、突然、諸々の文献に詳述された。例えば、元禄3(1690)年、城内で腹痛を起こして苦しむ、福島の秋田河内守に「反魂丹」を飲ませたところ、たちまち平癒した…。それで全国に売薬行商が広がった、など正甫公伝説は数多い。
骨格となる産業が乏しく、河川の氾濫など災害に苦しむ富山藩で正甫公が薬の販売に着目したのは否定できない。とは言え、販売システム「先用後利」の商法が生まれたとは信じ難い。ルーツはどこだろうか。諸説あるが、立山信仰の衆徒が越中売薬の下地を形成した、と唱える歴史家は多い。
立山の衆徒たちは中世の頃から全国へ、布教活動を始めた。お札(ふだ)を配るとともに日用品の扇子や針に加え、薬草で作った薬を信者に与えた。その証拠に衆徒らが歩いた記録「檀那帳(だんなちょう)」と、売薬のお得意先の台帳「懸け場帳(かけばちょう)」がそっくりなのだ。
衆徒らは全国を歩き、薬草を与えた信者の家々の住所や氏名、品物を書き留めた。注目すべきは代金をすぐにはもらわず、再訪した1年後に頂いていたことだ。
信者が配った薬は独自の手法で作った和漢薬だ。病気が治まれば、信者らは立山を目指しただろう。そして、時代は信仰としての売薬と、商業としての売薬が徐々に分離し、あるいはそこに越中売薬が参入したのか。
いずれにしろ、衆徒らが実践した「先用後利」は江戸時代の売薬の下地を創ったと見るのが妥当であろう。
廣貫堂の歴史は先用後利を育んだ衆徒と信者、売薬さんと消費者がそれぞれ築いた信頼の足跡に他ならない。不正製造発覚後、売薬さんの苦渋の顔が浮かぶ。未だ責任を取らない経営トップ、富山薬業の矜持はどこへ行った。
(S)