《一言半句》渋沢栄一と富山の薬業 —誰のための商売か
昨年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一の信念は「民(たみ)のために働くこと」だった。農民から武士へ、一時大蔵官僚にも就いたが、生涯にわたり銀行や証券取引所、製紙会社など500以上の事業を興し、民間人を貫いた。日本の資本主義の父と称される渋沢は、2024年から1万円紙幣のシンボルになる。
渋沢の企業家精神は、血眼になって売上高や利益のみを追求することではない。何のために銀行や鉄道が必要なのか、なぜ製紙会社が必要なのか…。根底には「事業を通じて社会に貢献」という発想があった。例えば、日本の力をつける一つに王子製紙の設立を思い立った。
ヨーロッパを見聞し、迅速かつ、広範囲に普及する新聞が重要であり、大量に印刷するには高価な和紙では追いつかず、洋紙が不可欠と考えた。「日本のため」ではあるが、大衆、つまり「民のため」の起業でもあったといえる。
渋沢は恵まれない子どもらのため、養育院を運営した。ドラマの中でどんなに忙しくとも、施設を訪ね、子どもたちに囲まれ、微笑む姿があった。企業経営から退いても、死ぬまで55年間も通い続けたという。自分の利益とは関係なく、民のため、広く社会全体のために行動した。
関東大震災で東京が壊滅状態になった時、渋沢は「協調会」という組織を活用し、民間の力を結集、炊き出しや被災者の収容、情報案内、臨時病院の確保など危機対応に奔走した。民間人として働いた渋沢の呼び掛けに大勢の仲間、支援者、いまならボランティアが駆け付けた。
災害支援と言えば、富山県の配置家庭薬業者、かつての越中売薬を思い起こす。売薬さんは全国各地を歩き、開拓した消費地に薬箱を配置した。半年か1年後に再訪し、服用した分の代金だけ受け取り、補充した。もちろん、夜逃げで集金不能なお客がいたはずだ。それでも「代金は後で」という商法を繰り返し、伝統を築いたのが現代に続く富山の薬業の精神なのだ。これが今日、広く知られる先用後利(せんようこうり)、「用を先に利を後に」という類まれな商法である。
売薬さんと消費者との信頼関係は災害時にいかんなく発揮された。私の知る限り、例えば、宮城県沖地震や空前絶後といわれた伊勢湾台風の被災地へ駆け付けた。代金の回収のためではない。お見舞いであり、失った薬を補充したのだ。もちろん、代金は棒引きした。江戸時代の売薬さんは大火や洪水などの災害に遭った被災者(顧客)に棒引きしたという記録が残っており、それが現代にも生きている。
売薬は利益のみの商売ではなかった。昨年3月の一言半句で、売薬業者は世のため、富山県内の銀行や電力会社の設立に率先して資本提供し、参画したことを紹介した。渋沢栄一とは比べようもないが、業界の一人ひとりが実践したとなれば、評価すべきである。一昨年来、相次いだ県内の製薬会社の不祥事の背景は、「民」への奉仕の精神を置き忘れたことでなかろうか。
(S)