《一言半句》雪庇(せっぴ)の上を歩く世界と日本―コロナ禍に見える絶景

 「人間という絶景がある」  —県内企業・オークスの心に残るテレビCMである。人それぞれ終章を迎え、振り返ればドラマがあり、いのちをつないでゆく。現代に生きる私たちが見続け、次代につなぐコロナ社会の風景はどうだろうか。その先に希望の風景が見えるだろうか。

 この2年余りの間、コロナ禍の日本を眺めただけでも、様々な変化した風景がある。例えば、葬式のスタイル。新聞のおくやみ欄が変化した。末尾に(葬儀は終了しました)とある。家族葬が激増したのだ。通夜や葬儀の日時の案内はあっても、多くの人は散発的に葬儀場を訪れ、喪主へあいさつし、遺影に語り掛け、焼香を済ませ帰る。一般席は空席だ。

 こうしたスタイル、スタンダードになるかもしれない。名刺交換や握手、書類に押す判子も消えた。テイクアウトや宅配はほぼ日常化し、家族や気の合う仲間との食事会や飲み会は不変だろうが、〝コミュニケーションを深めるため〟と称する上司を交えた宴会は少数派に転じるだろう。

 東京・汐留の高層ビル、広告代理店最大手の電通ビルが売却された。業績悪化に加え、コロナ禍の業務に巨大ビルの職場が不要になった。テレワークやリモート会議が主流になり、社員は分散、拡散した。

 お盆や正月の帰省で「ふるさとに戻らないで」と地方の人々が叫び、東京で暮らす親子や学生らは悩んだ末、多くが帰省を諦めた。感染爆発の流出元は1,300万人の東京である。「蛇口を閉めないと、コロナが国内に拡散する」と専門家や政府は警告した。

 一部企業やテレワーク先を地方に求めた若い家族がそのまま移住したというニュースを散見するが、人口や経済、政治の中枢は世界に類を見ない巨大な東京に集中し、変化の胎動が聞かれない。

 作家の五木寛之さんは以前、コロナ後の日本、世界が変わるキーワードは「散」、分散、拡散、逃散の「三散」だ、と述べていた。例えば一極集中の人口や職場の分散。明治以来の中央集権国家から、現場を知り尽くす自治体など地方への権限委譲。コロナで苦しむ移民や難民の移動。止まらない気候変動・地球温暖化…。フェイクニュースをはじめ、情報の拡散に翻弄される人々。これらの風景は変わろうとしても、なかなか変われない、あるいは膨張して崩れる寸前だが、かろうじて維持している状態なのだ。

 自然界のたとえで言えば、この頃、雪を冠する立山連峰を眺め、美しさに感動する。この絶景は登山者からすれば要注意。怖いのは雪庇(せっぴ)である。山の稜線の下の谷側にひさしのように張り出した積雪。見渡せば絶景だが、何かの拍子に踏み間違えば雪庇が崩れ、登山者は谷底へ転落する。

 日本も世界も今、雪庇の上を歩いている危機的な状況だろう。問題は、そこにある危機を察知するか否かである。    

                        (S)