キルギスからの便り(23) ロシア語脳になって心のもやもやを解消!
日本語教師 倉谷恵子
考えても仕方のない雑念が次々と浮かぶ。頭の中が負のスパイラルになって一日中気分がすぐれない―誰しもそんな経験があるのではないか。新型コロナの影響で外出を控え、気分転換もままならない日々は特に、そんな状況を生みやすい。
自分の力ではどうにもならない恨み節は頭から放り出して、思考を別の件にシフトさせようとしても、ザーザー降りの雨や猛暑の日は外出できず、友人にも会えず、頭の中の負のらせん階段は延々と続く。
家の中に閉じこもっていなければならない時、一体どうすればらせん階段は途切れるだろう。料理や家事に無心で取り組もうとしても、頭の中は空にならない。ゆっくり風呂に入っても、体の汚れは落ちても頭にたまった滓ははがれない。電話やチャットで慰めを得られる場合もあるけれど、顔をあわせない相手にごもっともなアドバイスなど受けたら、かえって落ち込んでしまいそうだ。
大好きなケーキやご馳走を食べれば気休めになることは百も承知。でも食べに出掛けるか買いに行くことになるので無理だ。どうしてもその欲望を満たしたい場合は、自分で作って片づけるという面倒な行為が伴うから、上げ膳据え膳の環境でもない限り得策ではない。
脳内を簡単に切り替える方法はまったくないのか。少し客観的に自分を振り返ってみて気が付いた。
ある。確かにある。頭から暗い雲が消えている時間が…。

キルギスの知人へ春に送ったメッセージの一部。「今年は桜が例年より早く咲きました。先週はこんな感じ。今はもう散っています」という文章と写真。
ロシア語でキルギスにいる知り合いやロシア語の先生にチャットのメッセージを書いているときである。脳内のらせん階段は跡形もない。なぜなのだろう。
理由は簡単。単に「ロシア語で文章を考え、入力しなければいけないから」である。私の頭の中の日本語とロシア語の境界には、深く広い川が流れている。ロシア語側へ行くには脳をフル回転させないと橋を渡ることができない。一旦渡ったら日本語側を顧みる余裕はない。2つの言語間を目をつぶって楽々と往来できるほどに脳はこなれていないから、日常の簡単な出来事をロシア語で伝えるだけでも、かなりの努力が必要なのだ。
「昨日、花見に行きました」、「蝉が盛んに鳴いています」のように、日本語なら一瞬で作成できる短い文章をロシア語にするとなると、唸ってしまう。「花見って、日本語なら熟語があるけれど、ロシア語だったら『桜を見る』か『桜を眺める』か『桜を鑑賞する』か、どう表現すべきだろう」。
「『鳴く』は日本語では一言で済ませるが、ロシア語は犬、猫、牛、ねずみ、カエル…生き物それぞれで動詞が違うしなあ。セミはどの動詞を使うのだろう。『盛んに』は『間断なく、常に』という意味なのか『大きな声(音)で』ということなのか。そもそもセミが鳴くという状況があちらの人に理解できるのか」等々、普通なら深く考える必要もない言葉の使い方にいちいち頭を悩ます。
さらにロシア語キーボードでつづりを確認しながら入力していると、上級者なら30秒で書ける文章に3分どころか30分もかかったりする。その間、私の頭は橋を渡ってロシア語側に移行しているので、日本語側に存在する雑念は入り込む隙がない。つまり言語が変わることで、その言語を使って生きている環境で漂っている雲もあちら側に行ってしまうのだ。
私がいまだにロシア語を流暢に操れない証明のようなものだから、決してうれしくはないが、日本語世界からの頭の切り替えに役立っていることは事実である。
ただしロシア語を使う作業なら何でも良い訳ではない。ロシア語の本を読む、単語を覚えるといった作業だと、いつの間にか現実世界に戻って雲は再び漂い出す。読む、覚えるというのは受動的で退屈しやすいのだろう。
文章を作成するにしても「次の日本語をロシア語にせよ」といった練習問題を解く場合も効果は薄いはずだ。学生のように練習問題をこなしたことがないので、断言はできないけれど、多分そうだろう。まったくのゼロから文章を作り、それを実在する相手に送るからこそ、ロシア語の世界に没頭できるのだと思う。
しかも彼の国にいる人々とはそれ程深い付き合いではないので、互いの心の奥底を吐露するはずもなく、雨が降っています、元気です、これこれを買いました、どこそこへ出かけましたなど、ありふれた日常を伝え合うだけだ。
日本人同士だと、心のどこかで「もっと気の利いた言葉を返してくれてもいいのに」、「行間を読んでよ」などと望んでしまうが、彼らにはそんな期待を一切しない。気軽な相手に母国語と異なる言語で接する時間が、日本に一時帰国している私を負のらせん階段から降ろしてくれる。
ビジネスの世界でばりばりと外国語を使いこなし、海外の人々と渡り合っている方から見れば、実に生ぬるいことを言っていると思われるかもしれない。しかし異国の言葉を使い異国の人と接することは、収入や業績につながる実益以外にも、心の支えという小さな効能をもたらしてくれるのだと思う。