キルギスからの便り(21) いつもの場所でいつも会う

在キルギス共和国 倉谷恵子

アスファルトの道路の脇につながれて草を食んでいる馬の親子

  日本に戻って1年がたった。キルギスで過ごした最終月、昨年の5月はどう過ごしていたろう。 

  新型コロナによる非常事態宣言下で学校の外へ一歩も出られなかったのが4月で、5月に入っても交通機関や店舗営業、首都ビシュケクとの往来には制限があったが、学校の周辺を歩くことはできるようになっていた。

  そして私はほぼ毎日歩いていた。学校の北側の人通りが少なく普段ほとんど通ることのない道を選んで1時間半から2時間近く、空気がきれいな訳でも美しく整備された公園がある訳でもないのにひたすら散歩をしていた。

  どこからともなく漂ってきた甘い匂いの元をたどってみるとニセアカシアの花が咲いていて小さな喜びを感じたり、遠方のセメント工場から出る灰色の煙がたなびいているのを見てどんよりした気分になったり。新型コロナの影響で授業がなくなった単調な日々に、散歩はちょっとした刺激を与えてくれていた。

 歩行者が少ないこの道で、たびたび会う顔があった。誰か? 馬の親子だ。親子だと私が勝手に思っただけでそうではないかもしれないが、大きい馬が1頭と小さい馬1頭、あるいは大きい馬2頭と小馬1頭の組み合わせで2、3頭がいつも道端につながれていて草を食んでいた。

 こう書くと、のどかな畑や山の中の未舗装の小道を思い浮かべるかもしれないが、そうではない。アスファルト舗装されていて、たまに通るトラックや自動車は人が少ないのをよいことに結構な速度で走行しているし、そこから1本南の道へ入れば住宅街が広がっている。

 キルギスでは首都近郊に住んでいても馬や羊、牛を目にするのは日常的なことだ。私の勤務する学校の隣の公園では羊飼いの男性がほぼ毎日十数頭の羊を歩かせていたし、バスで幹線道路を走っていれば窓の外には茶色い牛の姿が至る所に出現する。

 キルギスに来た当初はこの光景におどろき面白く思ったが、1、2カ月も経つと家畜の姿が視界に入ってくることはごく当たり前になった。散歩道につながれていた馬は毎日どこから連れてこられるのか知らないが、たぶん夕方になれば飼い主が来て家に戻されていたのだろう。

 初めてその馬たちを見つけた時、私は少し立ち止まって彼らを眺めていたが、馬の方は私が近くにいても知らんぷりをしていた。往復で同じ道を通ったが、帰り道でも私を一瞥もしなかった。翌日の散歩の際も再びそこに馬はいたけれど、私はもう立ち止まらなかった。すると3頭のうちの小さな1頭が私が横切る直前に頭を上げ、通り過ぎるまでこちらを向いていた。帰り道も同じように私が近づくと頭を上げていた。大きな馬は下を向いたまま頭を上げなかった。

 そして1、2日私が散歩をしなかった日をはさみ、3度目にその道で同じ馬がいるのを認めた時、子馬は向かってくる私の方をじっと見ていた。帰り道も同様に行き過ぎるまでこちらを見送っていた。大きい馬は依然としてあちらを向いて草を食べていて、私など眼中にないようだった。

 人間でも動物でも、自分とは異なる種類の存在に興味を示し、率直に表情や仕草に表すのは大人より子どもである。子馬がじっとこちらを向いていたのに、大きい馬がまったく私のことを気にとめなかったのは、長年この地域で生きてきた親馬にとって道を歩く人間など珍しくもなかったからだろう。学校でも日本人教師に対して低学年ほどストレートなまなざしを向け、体全体で近づいてくるが、高学年になればワンクッション置くことを覚え、さらに相手が見えていないような素振りさえするようになるのと同じだと思った。

 帰国までの散歩中、この馬たちに何度も会った。いつもの場所でいつも会う相手がちょっと気になるのは人間同士だけではないようで、子馬はその後も私が通るたびに顔を上げて見つめてきた。どこにでもいるありふれた馬だし、家畜が身近にいることにも慣れていたから、その馬を見ても特段嬉しいとも面白いとも感じなかったが、時折そこにつながれていない日には「今日はいないな、もう帰ったかな」などと気にかけた。学校の子どもたちと会わない生活のなかで、子馬とすれ違う一場面は「子ども」のまなざしを感じられる瞬間だった。

 日本では農村や山間部であっても馬はまずいない。牧場など特定の場所に行かない限り、道を歩いていて家畜動物に出くわす可能性などないに等しい。

 日本で季節の花と緑にあふれた景色の中での散歩に満足している今、馬の親子に会いたいとは特に思わない。食べ物や工業製品でキルギスにあって日本にないものなどほとんどないし、海がなく空気が乾燥したキルギスと比べれば、海も山もあり水に恵まれた日本の気候風土に欠けている要素など見つからない。

 それでも5月の空の下を散歩をしていると、ふと思う。遠慮なくこちらを見つめて抱きついてくる小学生の子どもたちも、道の脇で黙って草を食んでいる馬も、ここにはいないのだと。キルギスに走っているものよりずっと新しくてきれいな車に乗り、新鮮な刺身も寿司も食べられて、停電も断水もない毎日だけれど、望んでお金を払っても目の前に現れないものはやはりある。