キルギスからの便り(19) ラマダン

在キルギス共和国 倉谷恵子

  ひと月ほど前から一日断食を始めた。その日は固形物を口にせず、白湯やお茶で水分をとり、夕食時に野菜スープを飲むことにしている。何となく興味を持って始めたことだが、これまで3回挑戦し、苦痛ではなくむしろ楽しみになった。

一日断食の日の夜に食べたカボチャとキャベツ、ニンジンのポタージュ。この一杯がたまらなくおいしい。

 最近は美容や健康のための短期間の断食が広く知られているが、かつての断食といえば斎戒の意味合いが強く、長期間続く宗教的なものとしてとらえられることが多かったと思う。その代表が、今年も間もなく始まる、イスラム教の「ラマダン」だろう。

 キルギスの人たちの大部分はイスラム教徒だ。ラマダンになれば皆がそろって断食を始める、と思われるかもしれないが、実はまったくそんなことはない。こちらが意識しなければラマダン中だと気が付かないほど、人々の生活はいつもと変わらない。

 そもそもキルギスのイスラム教徒の多くは大っぴらにお酒を飲むし、教義としてのスカーフを巻いている女性もそれほど多くない。1日5回、忠実に礼拝している人を見かけることもめったにない。だからラマダンであっても、断食すると決めた人だけが行うのであって、商店やレストランは通常通り営業し、多くの人は日中、普通に食事をしている。

 ところでラマダンの本来の意味をご存じだろうか。恥ずかしながら私はずっと「ラマダン」イコール「断食」だと思っていたのだが、実際はイスラム暦の「第9月」をラマダンという。イスラム暦はすなわち太陰暦だ。太陰暦は月の動きのみに基づいて作られているので1年が306日しかない。現在、全世界で使われているのは太陽の動きに基づいた太陽暦で、1年は365日あり、1月は冬、7月は夏という風に月は毎年必ず季節と合致する。

 だが太陰暦は太陽暦より60日も短いから1年が早く巡ってしまい季節が合わない。第1月がある年には夏であったり、ある年には冬だったりするのだ。ちなみに少しややこしいが、日本で150年前まで使われていた旧暦は太陰太陽暦で、これは太陽と月の両方の動きを考慮して作られているから、睦月、如月、弥生…といった月は春夏秋冬の季節に対応する。

 今年のイスラム暦の第9月つまりラマダンは4月13日から5月12日である。去年は4月24日から5月23日、一昨年は5月5日から6月3日だったので、毎年11日ほど早まっていることになる。近年は春に巡って来るからよいが、7月や8月に当たれば照りつける太陽のもとで水も飲めず、さぞつらいのではないかと思う。

 私が勤務していた学校にも、ラマダンに断食する教員や生徒はわずかながらいた。学校の寮に住んでいた私は一昨年の5月、夕食がすっかり終わって静まり返った食堂のそばを通りかかった時、寮に住む1人の生徒と教員がテーブルの上に料理を並べて祈りを捧げようとしている場面に出くわした。

 寮の夕食は19時だが、私たちの学校がある地域では5月の19時に外はまだ明るい。日の出から日没まで食べ物を口にしてはいけないので、断食をする生徒は当然ながら夕食は日が沈むまでお預けで、他の生徒と一緒にとることはできないのだ。通常なら食堂の調理担当者はすでに帰り支度をする時間だが、ラマダンの時期に限っては彼らのために食堂に待機しているようだった。

 断食を実行する教員はさぞ敬虔なイスラム教徒かと思われそうだが、彼らは宴席でかなりの量のお酒を飲み、人にも勧める。首をかしげたくなるけれど、要は守りたい教義は守ればよいのであって、徹頭徹尾、教えに従う必要はないということだろうか。誰かに「宗教は?」と尋ねられたら一応「仏教です」と答えつつ、仏教徒的な振る舞いにまったく思いを致したことがないわが身を振り返れば、キルギス人の宗教観に口出しはできない。

 断食をしている人たちが日没後に食べる食事には、近所の人や友人、イスラム教徒以外の人なども招いてテーブルを囲むらしい。日中に水さえも我慢したら、食べ物がかなりおいしく感じるだろうから皆で楽しみたい気持ちもよく分かる。

 一昨年6月にイシククルの農村に滞在した際、日没後の食事に招かれたことがあるが、とても豪勢な食事だったので、何か特別な祝いかと勘違いするくらいだった。乾燥したなつめやし(デーツ)がたくさん用意してあり、日本にいる時からデーツが好きだった私は意味も分からずいくつもつまんでいた。

 後で知ったが、断食後にいきなり普通の料理を口にすると体に良くないので、デーツと水で胃を慣れさせる意味があるらしい。断食をしていない私がぱくぱく食べるものでもなかったのだ。この時は女性が中心に集まっていて、しかも日中の断食で皆、少し消耗しているためか、はしゃいだ様子もなく穏やかに食事をする様子が印象的だった。その静けさで写真を撮るのもはばかられたほどだ。

新型コロナで人が集まることは禁止され、小さなテーブルを囲み少人数で「アイト」を楽しんだ(2020年)

 約1カ月のラマダンが明けるとアイトと呼ばれる祝日になる。家族や親戚、友人たちが互いの家へ行ってごちそうを食べ、お祝いする。昨年のアイトはちょうど私たちの日本帰国が目前に迫った時期だったので、一緒に働いていたキルギス人の日本語教師の女性が、お別れを兼ねて実家へ招待してくれた。

 「本当ならこの日は、広い部屋にテーブルを長くしてたくさんの座布団をひいてお客さんがいっぱい入れるよう準備するはずだけど、今年は新型コロナのせいで人を呼んではいけないから、小さなテーブルを1つ置くだけです」と言っていた。ただ、そのお陰と言ってはいけないが、他にお客さんもなく、このキルギス人女性ともう1人の日本人の同僚、私の3人でゆっくりと水入らずの時間を過ごすことができた。

 さて興味半分で始めた一日断食は、なかなか面白い。ラマダンの断食は様々な欲を抑えて自らを清めることが目的というが実際、食欲を抑えていれば、余計な悩みや考え事は頭から自然と消えている気がする。それに断食の最中に原稿を書くと、いつもより集中力が高まってはかどる。何より夕食時に口にする一杯のスープが格別においしい。空腹こそがごちそうとはよく言ったものである。

 キルギス滞在中は他人事と思っていた断食だが、自ら体験することでその魅力を少し実感し、ラマダンをこれまでとは違う目で見られるようになった。