《一言半句》「先憂後楽」に学ぶ ―日医工の違法問題を巡って
医療用ジェネリック医薬品(後発薬)大手の「日医工」(本社富山市)の違法行為が薬業界はむろん、県民に衝撃を与えた。 出荷前の試験で「不適合」だった錠剤を廃棄せず、再加工して「適合品」として販売していた。命と健康を守り、信用が命の製薬。先人が築いた「薬の富山」のブランド。ダメージは計り知れない。
かつて、薬草など薬の主役は漢方薬だった。売薬をやれば一代で財を築けたそうだ。江戸時代から大勢の売薬さんが薬の入った柳行李(やなぎごうり)を担ぎ、全国津々浦々一軒一軒、訪ね歩いた。薬箱に薬を預け置き、半年や一年後に再訪し、使った分だけ代金を頂く。用を先に利を後に。先用後利という類を見ない商法が消費者の信用を得て、今日に続き350年という。
売薬さんは何を築き、何を残したのか。例えば、明治11年に設立された北陸銀行の前身、富山百二十三国立銀行。当時の役員の頭取こそ加賀藩の士族・前田家から招いたが、役員5人のうち、副頭取の密田林蔵、取締役の中田清兵衛は共に売薬関係者だった。多大な資本を提供したのだ。ほかに売薬さんが資本投入した銀行が約20行あり、後に北陸銀行に統合された。信用金庫も同様で、売薬さんにとって金融機関は必要不可欠だったのだろう。
金融機関だけではない。北陸電力の前身・富山電灯は明治31年、金岡又左衛門ら多くの売薬関係者が設立に関わっている。売薬さんが参画した産業は広く、鉄道や繊維、水産、出版、印刷などに及び、富山県経済の礎を築いたと言っても過言ではない。江戸から明治期、激動の時代の先を見通し、地域社会で躍動した。富山県人の進取の気性。見聞を広め、日本中を歩いた売薬さんの姿そのものである。薬種商が調合した商品の信頼、それを扱う商人の先用後利の精神。お客第一主義が隆盛をもたらした。そして利益を地域社会の発展のため、投資した。
県民に浸透する先用後利(せんようこうり)の言葉の由来は「先憂後楽」との説がある。心ある人は、心配ごとについては人々に先立って心配し、解決する。楽しいことは人々が楽しんだのを見届けてから楽しむこと、という。富山県の医薬品業界は生産額日本一、1兆円産業を目指している。目標は高く、されど、お客第一、数字に翻弄されるな。先人の苦言が聞こえる。
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