キルギスからの便り(18) 月のカレンダー
在キルギス共和国 倉谷恵子

キルギスの書店で見つけた月カレンダーの本2019年版と2020年版
ある夜、考え事もなく、コーヒーを飲んだ訳でもなく、遅くまでパソコンやスマートフォンもを見た訳でもないのに、全く寝付けないことがあった。振り返ってみるとその日は月が地球に最接近した満月。聞けばその夜に寝つきが悪かったのは私だけではないらしい。もしかして寝つきの悪さは月のせいだったのか。
満月の前後に買ったカニの身入りは少ない、ウミガメは満月の夜によく産卵する等々、月の満ち欠けと生物の営みが関連しているという話をしばしば耳にする。人間もまた生物なら、月の動きに影響を受けてもおかしくない。約150年前まで日本では旧暦の暮らしを続けていたのだから、月と人間との関りは深いはずだ。2年前、キルギスの書店で見つけた1冊の本がきっかけで、私は毎日の月の動きを意識するようになった。
私はそれほど本を読む方ではないが、書店へ行くのは好きだ。目的もなく店内をぶらぶらと歩いて、興味を引くタイトルに出合えれば「今日はラッキー」と思い、心ひかれるタイトルがまったく見つからない日は「心のアンテナが働いていない」とがっかりして店を後にする。そんなことができるのも、日本には母国語である日本語の本が山ほど並んでいて、表紙や背表紙を見れば瞬時に本の内容を把握できるからだ。
キルギスの書店に並んでいるのは当然のことながらロシア語またはキルギス語で書かれた本ばかり。書店でタイトルを見て歩いても、何の本なのかちんぷんかんぷんでまったく楽しくなかった。
しかし日本での習性が抜けないせいか、キルギスに住んでいても街へ出ればとりあえず足は書店へ向かってしまう。日本とは比較できないほど規模の小さな店内で、探す本のあてもなくふらついて無為に時間が過ぎていった。
無意味な書店通いを2、3回繰り返した後「何か1冊買おう。読めなければ本棚に飾っておこう」と決めた。最初に店員のすすめで買ったのはロシアのある著名な詩人の詩集だった。詩は1篇が短いから小説よりも読みやすく、単語さえ拾えれば意味は分かるだろうという浅はかな考えからだった。
翌日その詩集を開いてみると、ロシア語の文法をすべて習得していなかった私は辞書を引くことすらできず読解を断念。あっけなく挫折し、詩集を本棚の飾りにするどころか、見えない場所に押し込んでしまった。それにも懲りずにしばしば書店をのぞき、キルギスの自然や文化を紹介した写真とイラスト中心の本を数冊購入したが、文章を読み込むことはなかった。

2019年版の本の内容。月の相と位置、その日の生活で心がけたらよいこと、キーになる鉱石、自然に関わる生活の知恵や言い伝えなどが書かれている。
日本語教師1年目の仕事も終りに近づいた春、例によって目的もなく入った書店のレジ付近で、一風変わったイラストのペーパーバック本が目に入った。ロシアで出版されていて著者もロシア人だ。タイトルは「лунный календарь на 2019 год」。日本語にすると「2019年の月カレンダー」である。何だろう。手に取って内容を見てみると、365日それぞれの日の月の満ち欠けや月の暦にまつわることが書かれている(と思っただけで、中身を読み取れるほどのロシア語力はなかった)。たぶん2019年に入ってすでに数カ月が経過していたから売れ残り処分のためレジ近くに置いてあったのだろう。
1日分の解説に割かれているのは半ページから3分の2ページ程度。この位の量ならがんばって1日で読むことはできそうだし、小説のように最初から読み通さなくても、気が向いた日だけ読んでも構わない。そう考えてこの本を買い求め、その日から月カレンダーを読むことがささやかなロシア語の勉強になった。
本に書かれていた内容はまず「今日は新月を過ぎて上弦に近づく3日目の月が牡羊座の位置にいる」といった月の相と、位置を表す基本データ。次に「自身の健康に注意を向けるように:この日に病気にかかると長引きやすい。耳やのど、首筋が弱い。サウナに入るのに適している。好きなことに専念するための活動や準備がおすすめ。交通、車の運転、リスクの高い取引には要注意」など当日の月が人に与える影響を踏まえての行動の推奨、注意点。そして「黄鉄鉱(パイライト)、砂金石(アベンチュリン)、ルビー」などその日キーになる鉱石。最後に「肌の手入れ法」「予知夢とは」「薬草の摘み取り」「今月の天候について」等々、特に当日とは関係ないが、自然と人との関係を踏まえた生活の知恵や言い伝えなどが十数行程度記されている。
一見すると占いの類のようで、信憑性を疑われそうだったから他人にはこんな本を読んでいる、と話す気にはなれなかった。だが私は以前に種まきや収穫を月の満ち欠けに沿って行う農耕について調べたことがあり、月が生物に及ぼす影響に関心があったので、この本も興味深かった。
意味をくみ取れずあきらめた未読箇所もかなりあるが、カレンダー形式での1日数行の読解は飽きることがなかった。そして書いてあることに従って動く必要はないけれど、交通に気をつけてとか、争いごとは避けるようにといった忠告を念頭に置いて一日を送ると悪いことは起こらないと分かり、月カレンダーの本はロシア語の勉強と行動の指針になって一石二鳥だった。
昨年この本の2020年版を探しても見つからず、かわりにショッピングモールの小さな本売り場に、違う著者による簡素な内容の月カレンダーの本があったので、それを買って昨年12月末まで読んでいた。
2年近くキルギスと日本で毎日月カレンダーを読んでいるうちに、日常的に月の満ち欠けや位置を気にかけるようになり、人間は太陽や月の巡る自然によって生かされていると思い始めた。だから何かうまくいかないことがあったり、逆に良いことが起こっても「今日はそういう巡り合わせの日だったのか」と受け入れ、極端に落ち込んだり、過剰にはしゃいだりしなくなった。
ロシア語の勉強に役立てようと買った本が、いつの間にか自分の意識まで変えていた。