現地報告・英国のコロナ事情(4) ワクチン戦争
NHSの登録番号を使って順調に進むワクチン接種
ワクチン大作戦は次のように組み立てられた。
1日で30万人から50万人の人に接種する。土曜日、日曜日も含めて1週間7日間やる。そこで全国の地域ごとに接種センターを設けて何十人もが接種を受けることができるようにした。センターは大抵公会堂やスポーツ会場、講演会場などが充てられた。センターには接種をする医師や看護士(陸軍の看護士たちも含めて)がずらりと並んで、その後ろにはチェックをする人、入場する人を案内する人、登録されている本人かどうか確かめる人など、大勢の助手がいる。
また、高齢者で様子が分からなくてウロウロする人の介護をする係りもいて、決して接種を受ける人を怯えさせないようにしていた。接種が終わると少し離れた所の椅子に10分か15分座って、気分が悪くないかどうか訊かれて、何ともないようだと帰っていいことになっていた。
接種を受ける人は前もって予約しておく。英国では医療体制はNHS(National Health Service)と呼ばれる全国組織で国民の税金で運営されている。医者にかかったり病院で手術を受けてもいっさい無料である。誰もがNHS登録番号を持っていて、それがこのワクチン接種の時に役立った。自分の近くのセンターで接種が行われるという知らせを受けると、何時に会場に行くかを予約して(その時アレルギーのことなど訊かれる)会場では自分の登録番号を言えばいい。私のようにうっかり登録番号を調べていかなかった人間もいて、その時は自分の生年月日と住所を告げてOK ということにしてもらった。
こうして接種は順調に進み、1日30万人以上、時には60万人ということもあった。接種を始めて2週間後には700万人が接種を受けて、それは80歳以上の90%に近い人数だった。2月の初めにはちょうど1,000万人が接種を受けた。75歳以上のほとんどの人が受けたことになった。副反応はほとんどなかった。軽い頭痛や筋肉痛だけだった。多人種多宗教の自由な国であるから、中には絶対に接種を受けないという人種や宗教もある。それらについては開明的な指導者やキャンペイナーに説得を依頼して決して強制ではないことを説明した(受けなくても罰則はない)。
ワクチンの効果が出るのは、最低でも受けてから3週間後である(インフルエンザの場合と同じ)。それ故、まだあれこれと結論を出すことはできない。間違いなく感染者数は減少しているが、まだ2万人を切ったくらい、死亡者は多い時の3,000人からは減ったが、まだ1,000人前後である。勿論、最悪の時に感染して重症になった人がそのまま死亡していると考えられる。
ワクチン供給をめぐりEUが反発
ワクチン接種大作戦が成功して喜んでいる英国に対して文句が出たのはEUからだった。
まずはドイツの全国紙がEU委員会に噛みついた。英国では人口の13%がワクチン接種を受けたというのに、ドイツでは接種は始まっていない、EU委員会は薄ノロで要領が悪くて、これでは英国がEU離脱して良かったという広告をしているようなものだ、と述べたから委員会の会長も委員もカーッとなったらしい。
次々と多くの新聞が委員会を責め始めた。実は今の委員長はドイツのメルケル内閣の閣僚だった女性である。ヨーロッパのアストラゼネカ社を呼びつけて、なぜEU にワクチンが配布されないのかと問い合わせた。アストラゼネカ社はオーダーは英国の方が3カ月も早く出している、第一、EUはまだワクチン使用を承認もしていない(その段階ではまだ承認されていなかった)と答えた。
その回答に対してEU は言った。先に注文した者が先に品物を受け取る、それは肉屋でやることだ、EUは英国よりはるかに大きいし、人口も多い、だからEUを優先させるべきだ。さらに、もしEUにすぐワクチンを提供しなければ法律に訴える、とまで言ってアストラゼネカ社を脅迫した。さらにはEU外へはEU内の工場で作られた製品は輸出させない、とも言った。契約内容を公開するかしないかで揉めたが、結局はEUを最優先するという条件があった訳ではなく、EU側も最後には委員長がその誤りを陳謝した(委員長はいい人なんだよ、美人だし、と書いた英国のタブロイド紙があったことを付け加えるのは失礼かもしれない)。
実際にEU と英国の国境(EUメンバーのアイルランドと英国に属する北アイルランド)で腕ずくでワクチンを積んだ運搬車を引き返させようとして、それは各国から(当のアイルランドからも)大きな非難を招いた。
この間、英国はタブロイド新聞を除いて、政府は賢明に沈黙を守った。金持ち喧嘩せずの類であろうか。何しろ英国は人口の12%以上に接種を終えたのだ。さらに2つの大手製薬会社が新しくワクチンを製造して、英国はそれぞれと何百万回かのワクチンを契約した。英国人全てが4回接種できると言われるくらいだった。そしてワクチンが余る場合には積極的に必要な国に提供すると言った閣僚もいた。
最後に付け加えれば、この騒ぎの最中、EU委員の一人がアストラゼネカ社のワクチンは65歳以上の人には接種すべきではないと言いだし、さらにフランスの関係者の誰かも同じことを言ったと報道された。それが日本にも伝わって、2月3日の日本のラジオでそのことを告げていた。なぜ65歳か、何が悪いのか、そんなはっきりした理由は何も言われておらず、英国では根拠とするデータが何も提出されていないと言って改めて取り上げていない。
勿論、この背後にはEUを離脱した英国への憎しみがあっての騒動であり、まだ同様なことは起こるであろう。そしてEUの中でも旧共産圏だったハンガリー、ルーマニアなどではロシアのワクチンか、中国のワクチンを手に入れようとする動きもあるとのことである。
英国では、感染者数も死者の数も減りつつはあるが、決して満足できるほどではないとして、政府はまだまだロックダウン解除はしない、今度こそはいい加減な解除はしないという覚悟を見せている。
マークス寿子(マークス・としこ) 1936年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、東京都立大学法学部博士課程を修了。71年LSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)研究員として渡英。76年、マイケル・マークス氏と結婚。英国籍と男爵夫人の称号をもつ。85年に協議離婚。その後、エセックス大学日本研究所、秀明大学教授を歴任して現在ロンドン在住。著書に「英国貴族と結婚した私」「『ゆりかごから墓場まで』の夢さめて」「大人の国イギリスと子どもの国日本」「ひ弱な男とフワフワした女の国日本」「行儀の悪い人生」などがある。2018年4月号まで月刊誌「実業之富山」で「西の島より」を連載。