現地報告・英国のコロナ事情(4) ワクチン戦争
在ロンドン マークス寿子
ワクチンがある!
ここ1年間のコロナ・パンデミック、新型コロナウイルス(Covid-19)を恐れ、生活に制限を受けてまるで希望がないように見えた毎日だった。それがワクチンができたと聞いた途端―― そうだ、ワクチンというものがあると思った。
長い歴史の中でいろいろな細菌との闘いがあった。コレラ、ペスト、疱瘡、チフス、インフルエンザ―― そして、それらの病菌に対してワクチンができて、私達はそんな病気を恐れなくて済むようになった。病原菌の住む地域にいる人達は自然免疫が備わっているが、そうでない人がその地域に行くときにはワクチンをしてもらえばいいのだ。
改めて考えてみると、私達は幼い時に必ず種痘をしてもらった。そのお蔭で疱瘡に罹らなくて済むようになった。現在では、毎年インフルエンザの予防注射をする。何十年も前のことだが、私は西アフリカへ行くつもりだったから、そこで流行している黄熱病のワクチン接種をしてもらった。
世界のある地域に固有の細菌病が交通手段の発達によって次々と他所へ運ばれ、その免疫のない人達の間で流行してパンデミックを起こす。
日本では外国船が来るようになって何度かコレラの流行を見た。コレラ菌(ウイルス)の原地はインドのガンジス河付近という。1858年の日本でのコレラ流行は凄まじく、死亡率の高さと死に至る速さとでコロリと呼ばれた。それは長崎の出島に来た外国船の船員から始まったのであったが、当時100万人の人口であった江戸で20万人が死んだと言われる。現在までコレラのパンデミックは7回あったが、細菌学者コッホのコレラ菌発見に伴い予防注射ができるようになって、パンデミックの規模は小さくなった。
新型コロナウイルスによるパンデミックに怯えていた私達にとってワクチンとはこの上ない救世主のように見えたが、しかし、そんなに簡単にワクチンができるとは思えなかった。ワクチンができるのには長い時間がかかると言われている。コロナ・パンデミックが始まってまだ1年ちょっと。本当に効果のあるワクチンができたのだろうか。勿論、細菌研究や細菌情報など、研究者の間では私達の想像もつかないほどの進歩がなされているのだろう。
それでも、ワクチン製造と聞いたときの多くの人の率直な気持ちは、まあ2、3年したら、私達も接種するかもしれないというほどのもので、すぐに接種に飛びつこうという人は少なかったのではないか。
ところが、コロナ第2波が襲って感染は驚くほどに拡大し、死亡者数も増加して人々を極度に怯えさせていた英国では2020年12月からワクチン接種が始まった。2021年1月になると本格的に接種が拡がった。死者10万人以上となって「私の責任」と国民に謝罪したボリス首相の秘密兵器であった。
世界最初の大量接種に注目集まる

ワクチン接種会場への案内板
ワクチン製造を開始したのは、まずアメリカのファイザー社、次いで英国のアストラゼネカ社であった。ここで注意しなければならないのは、アメリカのとか、英国のとか言っても現在の国際化時代の多くの大手製薬会社はすべて国際企業であることだ。ファイザーの工場はアメリカだけでなくベルギーにもあるし、アストラゼネカのCEOはスウェーデン人、さらにイギリス人、フランス人などの代表もいて、オックスフォード大学の研究者も深くかかわっている。
英国は既に20年5月にファイザーと契約を結んでおり、次いでアストラゼネカとも契約した。EU もアストラゼネカと契約したが、それは英国より3カ月遅れてのことだった。さらにこれらの製品は各国でテストされて使用が承認されなければならない。英国では12月初めに承認が出て、すぐに12月半ばから接種が始まった。EUの承認はずっと遅れて1月末だった。
1月になって大々的に始まった英国の一般へのワクチン接種は大袈裟に言えば世界的に注目を浴びた。それまでイスラエルなど人口の少ない国では接種がなされていたが、英国のような大きい人口に対して、一斉に接種を行ったことはなかったからである。英国のワクチン接種は、いわば医療関係者の全力を挙げての大作戦であった。
接種を受ける人の順番は次のように決められた。
1.老人ホームの住民とそこに働くケアラー
2.80歳以上の人
3.70歳以上と持病のある人
4.60歳以上
5.50歳以下
大まかに言えば、後は自然に決まって来るだろうということである。大事なのは1、2である。感染すると重症化して死亡する可能性が一番大きいからだ。とくに1は死者10万人の中心となった。
老人ホームは全国で2万以上ある。その住民と職員、ケアラーをすべて最初の接種の対象とした。最初のロックダウンの頃、老人ホームの老人が感染で運び込まれると、病院は一応の手当をしてホームへ帰した。そこからホーム全体に感染が拡がって多数の死者を出した。さらに、症状の出ない若いケアラーが感染して、ホームで老人の世話をしたり、感染している家族が老人を訪ねて、老人に感染を移したりした。老人にとっては孫を連れた息子や娘が訪れるのが何よりの楽しみだったからである。
問題はいくつかあった。まずワクチンの運搬と保存。ファイザーのワクチンはマイナス70度以下で保存されなければならない。その低温の冷蔵庫から出されたら5日以内に使用しなければならない。アストラゼネカの場合は常温で保存できる。そして、どちらも2回の接種が必要で、1回目と2回目の接種の間は3週間とされた。1回目で50%ほどの効果、2回目をすることで効果は90%以上になるというのが最初の説明だった。
何しろ、世界最初の大量接種であるから何が起こるか分からない。副作用は? 誰にでも接種していいか等々。医者にも答えられない問題がいくつもあった。
英国ではまずファイザーのワクチン接種をやったが、その場合3週間置いて2回目をするのを変えて、2回目は10週間後とした。それで本当に大丈夫かと疑った人が多かったが、英国の医療関係者の考え方は次のようなものだった。接種を2回した人が10人いるよりも1回の人が20人いる方が社会全体の予防になる。1回だけでも効果が全くないのではなくて、50%以上はあるのだから。そして、その後の研究でその考えは肯定された。今ではアストラゼネカの場合、1回目と2回目の間隔が3カ月であっても効果に変わりはないと判明している。