現地報告・英国のコロナ事情(3) 感染拡大。第2波そして第3波

在ロンドン マークス寿子

 長い間の窮屈なロックダウンが徐々に解除されて、小学校も開校されたが、すぐに夏休みになって、やっと普通の暮らしが戻ってきた感じになった。多くの行事は取りやめになって、ウインブルドンのテニス大会も中止されたし、プロムなどの夏の名物コンサートも中止されて、その意味では寂しい夏だったが、それでも8月15日には対日戦勝75年の記念行事が各地で行われた。出席者の人数を減らすなど、いろいろな工夫をして、なるべく通常の行事を失わないように努力がなされていた。

 海外へホリデーに行く人は例年よりは少なかったが、国内の観光地は賑やかだった。ただし、観光業者は例年のように大勢の観光客をバスで連れて回ることはできなくて、観光地へは皆が自分の車で行くのだった。人が密集しないことはロックダウンが解除されても大切な守備事項だった。航空会社は乗客の減少を嘆いていたが、まだ完全に空港は閉鎖されたわけではなかった。9月になると、英国議会は年末に迫ったEUからの離脱を巡って今度こそはの交渉を続けていた。

医療従事者への感謝の気持ちを伝えるバナー

 そして9月から、徐々に感染は再び拡がった。それは英国だけのことではなく、ヨーロッパ全体、特にポルトガル、スペイン、イタリアで感染が酷くなって、コロナ感染第2波の到来とされた。10月末にはヨーロッパ各国は再び厳戒態勢に入った。仏独は春のロックダウンに近い措置をとり、イタリアやスペインも同様に規制を強化した。

 英国は第一次ロックダウンのような全国一斉の禁止措置を取るのではなくて、地域の感染度合いに応じて3段階に分けた警戒制度を導入した。最高度の地域ではレストランやパブやカフェは閉鎖されたが、ロンドン中心部のように第2段階の場合は、距離を置く限りレストランもオープンしていたし、商店もオープンしていた。

 11月に入ると、英国はクリスマス体制に入る。人々はクリスマスのプレゼントを買ったり、クリスマスの盛大なディナーのために買い物をする。クリスマスのディナーは家族だけでなく親戚、友人などを招いて10人20人の人が食べて飲んで楽しむ習慣で、ずっと前からプランを立てて買い物をしておかなければならない。

 ロックダウンで利益を失った商店は11月にはクリスマス用、またはブラック・フライデーなど様々な名前をつけて大々的なセールをやり始めた。商店街への人出は以前と変わらないように急増し、それと共に感染者も急増した。

 ジョンソン首相は11月5日に2回目のロックダウンを宣言したが、第1回目よりも緩やかなものだった。学校は閉鎖されず、会社への出勤も認められた。もっとも多くの会社員が在宅勤務を続けることを希望したから、外で仕事をしなければならない建築業者などが主として緩和ロックダウンを利用した。そしてロックダウンの期限も1か月と決められた。

 ロックダウンの期限が来ても感染者数も死亡者数も減らなかったが、政府はロックダウンを続けるよりも以前の地域ごとの段階分けに戻ることを決めた。ある地域、例えば英国南東のケント州では特に増加が酷かったし、北部のバーミンガムでも甚だしかった。

 ケントの場合は今考えると、英国のコロナ変異型が現れて、これは感染が70%急速に広がるという特徴があった。また、バーミンガム郊外では移民が多く、特に移民の老人たちは英語ができなかったり、政府の規則を守ろうとしないことが多かった。

 そしてロンドンはある地域では2段階、他の地域では3段階と別れて規則を守るのが面倒だった。実は首相の頭にはこの頃にはワクチン接種が始まるだろうという期待があった。

 ワクチン接種は12月半ばにファイザーのワクチンで始められ、クリスマス前に2回目を受けた人もいて、テレビニュースのいいネタになった。ワクチンを受けた最初の人は80歳を超えた女性で、その瞬間がテレビカメラに捕えられた。

 しかし、クリスマスから年末にかけて、大勢が集まるディナーは禁じられたが、人々はこんな惨めなクリスマスはないとぼやきながら、精一杯のホリデーを楽しんだ。そして、その間、感染は拡大を続け、患者の入院・死亡も増大して医療体制はパニック状態になりつつあった。

 10月に1日の感染者数500人ほど、死亡人数も100人以下だったのが、12月半ばを過ぎると、感染者数は3,000人を超え、死亡は400人を超えた。このままではどうなるか分からないと、みんなの頭に大きい不安がよぎる中で、政府は3回目のロックダウンに踏み切った。

 この度のロックダウンはいわば容赦のないものとなった。1回目同様に商店は食料関係と薬局だけが開店を許されて、レストラン、パブ、カフェ、ジム、劇場、コンサートなど娯楽関係は一切禁止。他所の家を訪れることも禁止、人に会うのは外で、そして一度にひとりとされた。一日一度のエクササイズは許されたが、一人でやること、集団になってはいけない、公園のベンチに座ってお茶を飲むのもダメ。それらの禁止事項を守らせるために警官が目を光らせた。  

 違反者は軽いものは警告を受けるだけだが、大勢集まって騒ぐ悪質の時には罰金が科せられた。主催者には10,000ポンド(約150万円)の過料だった。

 英国は何時から警察国家になったのだという新聞や国民の権利を主張する自由人たちの非難にも政府は耳を貸さなかった。それでも感染拡大は続き、死亡も増加し、入院患者も増え続けた。ついに1日の感染者数は6万人を超え、死者は1日2,000人に近くなった。そして1月26日には死亡した人数が10万人を超えたのであった。

 翌日のいずれの新聞も、ジョンソン首相の間違いを指摘すると共に、そして医療顧問の見通しの甘さを非難し、我々国民の欠点を指摘する声が多く載せられた。

 つまり、多くの国民が大したことはないさ、と考えて規則や制限を守らなかったこと、外国から戻って自己隔離10日と言われても実際には4、5日で止めてしまったり、友人宅を訪ねてみんなと食事をしたり、結婚式に200人もの人を招いたり…なぜこんな窮屈な生活をしなければいけないのかとロックダウンを呪う人が増えてきていたのだった。

 毎日のようにロックダウン反対のデモもあった。死者10万人、そして首相の「私の責任だ」という声を聴いて人々がかなり真剣に事態を考え始めたとき、「ワクチン接種」という救いの神が現れた。

マークス寿子(マークス・としこ) 
1936年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、東京都立大学法学部博士課程を修了。71年LSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)研究員として渡英。76年、マイケル・マークス氏と結婚。英国籍と男爵夫人の称号をもつ。85年に協議離婚。その後、エセックス大学日本研究所、秀明大学教授を歴任して現在ロンドン在住。著書に「英国貴族と結婚した私」「『ゆりかごから墓場まで』の夢さめて」「大人の国イギリスと子どもの国日本」「ひ弱な男とフワフワした女の国日本」「行儀の悪い人生」などがある。2018年4月号まで月刊誌「実業之富山」で「西の島より」を連載。