キルギスからの便り(14) 名前の呼び方

在キルギス共和国 倉谷恵子

 「ええっと、あの人、なんという名前だっけ…」。顔は思い出せるのに名前が出てこない。そんな思いをしたことが誰にでもあるだろう。営業職やサービス業の方々はとっさの時にも顧客の名前が出てくるよう訓練をされているのだろうか。どんな仕事でも人と関わっている限りは多かれ少なかれ他人の名前を覚えなければいけない。なかでも教員はたくさんの名前に出合う職業だ。

 私は昨年度、1年生と2年生の各4クラス、計8クラスを担当した。1クラス20人程だから160人以上の名前を呼んでいたことになる。2年前の初年度は子どもとの距離を縮めようと張り切っていたから、担当した児童・生徒の名前をすべて記憶していた。だが昨年度は完全には覚えられなかった。顔と名前が一致せず、うるさい児童を授業中に注意しようにも名前が出てこなくて困ったこともある。新型コロナで授業が中断されて覚えきる時間が足りなかったと言い訳したいが、実のところ初年度のような必死さがなかったからだと思う。

 キルギス人の名前は日本人に馴染みがないので、覚えるのに苦労する。そのなかでも比較的頭に入りやすかったのはロシア系児童の名前だ。前回カチューシャの歌を紹介した際に愛称形について触れたが、今回はロシア人の名前や呼び方について記したい。

 突然ですがここで問題。
 「次の愛称の正式名を推測せよ。 ① カーチャКатя ② ヴォーヴァВова ③ ジーマДима ④ ナスチャНастя ⑤ サーシャСаша ⑥ オーリャОля ⑦ マーシャМаша」

 いずれも私が受け持った児童や知り合いの名前である。いくつかは文学作品などを通して知っているかもしれないが、見たことも聞いたこともない愛称もあるだろう。

 答え合わせをすると、①は前回も書いたが「エカテリーナЕкатерина」である。女帝の名前として有名だ。②はヴラジーミルВладимир」で男性の名前。プーチン大統領の名前でもある。③は「ドミートリーДмитрий」で男性の名前。④は「アナスタシーヤАнастасия」で女性の名前。私がキルギスに来て最初に覚えた愛称だ。⑤ は男性名「アレクサンドルАлександр」または女性名「アレクサンドラАлександра」。私が知るのは学校近くで移動販売のバーガー店を営む男性のサーシャで、女性のサーシャには出会っていないが、このように男性と女性両方の名前に共通する愛称も多い。⑥ は「オリガОльга」で女性の名前。⑦ は「マリーヤМария」で女性の名前。

 正解はあっただろうか。愛称よりむしろ正式名の方がニュースなどで耳にしていると思う。「どみとりい」「あなすたしや」「まりや」と一本調子で読みたくなるが、ロシア語はアクセントが重要なので、強調して伸ばす音ははっきり発音した方が伝わりやすい。

 それにしても「一体どうすれば正式名をそんな愛称に変化させられるのか!?」と思う。アレクサンドル、アレクサンドラとサーシャは「サ」の1音だけしか共通点がないし、ヴラジーミルやドミートリーにいたってはどうひっくり返ってもヴォーヴァやジーマとは思いつかない。しかしロシア人ならアルファベット(キリル文字)の字面と音からすんなり変換されるのだろう。

 同じ名前にも愛称はいくつかあって、「エカテリーナ」はカチューシャКатюша、「マリーヤ」はマリーシャМаришаと呼ばれたりもする。だからプーチン大統領が友人や家族に「ヴォーヴァ」と呼ばれているとは限らず、もう1つの愛称である「ヴァロージャВолодя」と呼ばれているかもしれない。愛称は日本人が使う「~ちゃん」「~くん」、あるいはあだ名とも異なる。ある種のかわいらしさや親しみやすさ、好みなどが関わっているようだが、私たちには理解しにくい。本人が気に入っている愛称で呼びかけるのが一番だ。

 今でこそ、これらは当然に知識のごとく書いているが、ロシア語もロシア文化も勉強せずにキルギスに来た私は当初、正式名と愛称の組み合わせなどちんぷんかんぷんで、「愛称形」という存在すら理解していなかった。

新学期が始まった数日は、カタカナとロシア語で名前を書いた紙を
児童の机の上に置いておき、名前を呼べるようにしていた。

 新学期が始まった9月の最初の授業の際、まだ生徒の正式な名簿が日本人教師の手元にわたっていなかった。そこで私は児童に自分の名前を紙にロシア語で書いてもらい、回収して自分で暫定的な名簿にしていた。

 1週間ほど後、正式な名簿ができてきたので、1年生のある教室でその正式な名簿を見ながら出席をとった。エカテリーナという名前があった。「エカテリーナ」と呼んだ。返事がない。他の児童のおしゃべりがうるさくて聞こえないのかと思ってもう1度呼んだ。それでも答えがない。

 すると周りの子どもが「カーチャ、カーチャ、先生が呼んでるよ」と言った。ああ、カーチャか。そういえば紙に名前を書かせた際、確かに「カーチャ」という名前があった。私は思い出し、改めて「カーチャ」と呼んでみた。すると顔を上げて「はい!」と返事が返ってきた。エカテリーナという自分の本名を知らないはずもないだろうが、とりあえず彼女にはカーチャがしっくりくるようだ。私も愛称のことをよく知っていれば、しつこく本名を呼ばなかっただろうが、まだ知識がなかったのだ。

 他にも、ヴォーヴァという愛称だけを先に覚えてしまい、名簿の中にある「ヴラジーミル」って一体誰?といぶかしく思ってみたり、ある男子児童を私はいつも「ドミートリー」と呼んでいるのに、同じクラスの児童の口から一度として「ドミートリー」という声を聞いたことがなくて、半年くらい経ってようやく「ジーマ」と呼ばれていることを知ったり等々、本名と愛称を認識するには時間がかかった。

 児童・生徒や友人は本人の望む愛称で呼べばよいが、敬意を払わなければならない相手にはそれなりの表現が必要である。日本語は「~さん」「~様」、英語なら「Mr.」「Ms.」などをつけるがロシア語はそれに相当するものがない。

 ではどうするか。「父称」というものをつける。本人の父親の名前を少しひねった形にして、名前の後ろに並べるのだ。例えば「ピョートルПётр」さんという父親にエカテリーナという娘がいたら彼女は「エカテリーナ・ペトロヴナ Екатерина Петровна」と呼ばれ、イワンという息子がいたら彼は「イワン・ペトロヴィッチ Иван Петрович」と呼ばれる。

 何と面倒なのだろう! 日本人なら姓だけを覚えて「~さん」と呼べば済むところをいちいち父親の名前までくっつけるとは。しかも男性と女性では父称の作り方が異なっている。ロシア語は名詞、動詞、形容詞すべての単語が長くて、活用が複雑なのだが、名前の呼び方に関しても例外ではない。

 男性形だと父称は「~ヴィッチ」、女性形は「~ヴナ」になるらしい。らしい、というのは私はいまだに父称の作り方がよく分かっていない。学校で教員が互いを呼び合う場合や児童・生徒が教員を呼ぶ場合は父称をつけて呼ぶのだが、私は周囲の教員たちの名前(ファーストネーム)を覚えることすらできずにいるので、父称などハードルが高すぎる。だから何かの用で呼びかける場合は「●●センセイ」と日本式で呼ぶことにしている。いや、日本では姓にセンセイをつけるのだから、名前にセンセイをつけるのは本来の日本式とは違うか…。

 私が現地でロシア語を習っている先生の名前は「タチヤナТатьяна」という。彼女の父称を知ったのは1年目が終わろうとしている頃で、それまでずっと「タチヤナセンセイ」と呼んでいた。2年目もそう呼び続け、1度として父称つきで呼びかけたことはない。呼び方とは不思議なもので、「タチヤナセンセイ」と言えば「私のロシア語の先生」として身近な存在なのに、父称で言うと他人行儀に感じられる。

 日本人の中でも、ファーストネームを呼ばれてうれしい人もいれば、姓だけで呼ばれたい人もいる。「~社長」と役職名で声をかける人もいれば、役職にかかわらず「~さん」で呼ぶ人もいる。慣れ親しんだ呼び方がそれぞれにあり、互いの距離感も関係しているから、どれが正しいとは言えない。外国人からみれば、日本人同士の名前の呼び方を理解することもまたむずかしいかもしれない。

 今回はロシア人の名前について説明したが、キルギス人の名前こそ私たちにとっては未知である。次回以降でキルギス人の名前も紹介したい。