キルギスからの便り(12) 「先を思い煩うことなかれ」

在キルギス共和国 倉谷恵子

 時計、カレンダー、スケジュール手帳。一日、月単位、年間単位での時の流れを把握するアイテムである。スマートフォン1つで事足りるようになった今も、機能として重要なことに変わりはない。学校の各教室に時計が掛けられ、年末になると企業や商店はオリジナルカレンダーを制作し、書店や雑貨店には多種多様なスケジュール手帳が年中並んでいるのが見慣れた日本の風景だ。

 キルギスでは学校の時計は玄関と教員室に1つずつあるだけで、一般家庭の壁にカレンダーがかかっていることは珍しく、スケジュール手帳はどんな店にもほとんど見当たらない。初めてキルギスに来た年の年末年始に首都ビシュケク市内で目を皿のようにしてスケジュール手帳を探したが、B5版ほどの大きな手帳が1冊見つかっただけで、自分が望む手のひらサイズは結局どこにもなかった。モノ不足でもないし、スマートフォンやタブレットで時間管理をしている訳でもないのに。

キルギスでは年末の店先以外でカレンダーをあまり見かけない。学校の玄関にたまたま置いてあった卓上式のカレンダーに目をやると、日付が縦に並んでいて面白かったので撮影した。キルギスのカレンダーすべてで日付が縦並びという訳ではない。

 時計について忘れられないエピソードがある。真面目で物覚えも良い2年生の児童がある日、日本語の授業が終わった後にロシア語で「先生、今何時? 教えてください」と私に尋ねてきた。午後2時からの水泳の授業が待ち遠しいのだという。時計がなくても授業の時限でおよその時刻は分かりそうなもので、わざわざ尋ねる彼女を不思議に思いながら、私は自分の腕時計を見せた。文字盤を見れば一目瞭然だと思ったからだ。

 しかし彼女は首を横に振り、時計に目をやることもなく「何時ですか」と再び尋ねる。他の児童も私の時計をのぞき込んで「何時、何時?」と聞くばかりで誰も時刻を口にしない。どうやら多くの児童は小学2年生でも時計を読めないらしい。聞けば高学年でもアナログ式の時計を読めない子どもがいるようだ。時計の読み方を教わっていないという教育上の問題はさておき、時計が読めなくても生活できることにおどろいた。

 こうした体験に象徴されるように、キルギスでは日本ほど時間や歳月を意識しない。日本の鉄道は時刻表通り正確に動くから、駅へ着く時間が30秒でも遅れたら予定した列車に乗り遅れる。人と会う約束の時間に10分以上遅刻すると信頼を失いかねない。会社や店も決められた日に休み、開店・閉店の時間は守られる。恒例の行事や企画は1年前から日程が決まっていて、出張や会合も数か月~数週間前から手配される。大人が常に先を考えて時間や日付を意識しているから、子どもも自然と時計を見るようになり、読み方を習得する。

 キルギスでは主要な交通機関である「マルシュルートカ」と呼ばれる乗り合いバスには時刻表がない。始発地点で満席になれば出発し、終点までのルート間ではバス停か任意の場所で待ち、手を挙げて通りかかったバスを停める。運が良ければすぐにバスをつかまえられるし、タイミングが悪ければ延々と待たされるので、家を早く出ても目的地に早く到着するとは限らない。乗り合いタクシーを利用したとき同乗者が現れるまで1時間以上待たされたこともある。

首都ビシュケク市内にある鉄道駅の構内。ソ連時代に建てられた立派な建物の中に日中、人影はまったくない。

 さすがに鉄道には時刻表があり定刻で運行されているが、便数と路線が極端に少なくほとんど利用されていない。ソ連時代に建設されたと思われる立派な駅舎には、日中は駅員以外に人影はない。鉄道を使わないキルギスでは察するに、時刻表というものを利用したことのない人が大勢いるはずだ。

 今日、明日と差し迫って予定が入ることも珍しくない。昼食後に電話がかかってきてその日の夕方の宴席や食事に招待されることもあるし、当日になって学校の時間割が変更されたり授業がなくなったりすることも日常茶飯事だ。個人商店や食堂は営業中の時間帯にシャッターが閉まっていたり、逆に遅い時間や休業日に開いていることもあるが、予告なく変則的な営業をしたからといってクレームが出ることはまずない。

 キルギスには5月初旬に日本と同様に祝日が何日かある。祝日を連休にするため実際の休日はその年によって移動するのだが、国からその日程が発表されるのは、祝日が1週間~数日後に迫ってからだ。旗日は1年前から決定しているのが常識の日本からすると信じがたく、それと知らなかった私は大いに慌てた。

 計画性についての相違は通信手段の使い方にも表れている。日本ではメールやメッセージがよく使われるが、キルギスでは電話を使うことが多い。メールやメッセージは考える時間があるものの、相手の返事を待たなければいけない。電話は深く考える暇はないがその場で即決できる。

 「今の時間帯は仕事や休憩で迷惑かな」などと日本人のように相手を慮ることはないから、思い立ったらすぐ電話をかけて、相手が出なければそれまで。だから手帳に綿密な予定を書き込み、時計を常に気に掛ける必要はない。ここでは先のことを考えるより今、目の前のことに対応することが大切なのだ。

 キルギス滞在2年余になったが、予定が突然入ったり無くなったり、乗り物や人に待ちくたびれたりした痛い思い出を語れば一晩でも足りない。予定通りに事が運ぶ日本社会はまるで、あらかじめプログラムされたオートメーションシステムのように思える。

 今春、日本とキルギスの時間や歳月に対する意識の違いを意外な状況下で改めて考えさせられた。コロナウイルス流行初期の非常事態である。

 キルギス国内では初めて感染者が見つかったわずか4日後に非常事態宣言が出され、外出が制限されて交通機関や経済活動が停止したが、大きな混乱はなかった。日本なら「準備期間が必要だ」「補償問題を解決しなければいけない」等々の意見が出て、即時の非常事態突入を全国民に求めることは不可能だろう。

 キルギスは人口や経済規模が小さく、旧社会主義国という特質上、日常的にトップダウンで物事が決まり、命令にすみやかに従うことには慣れているし、非常事態が長期化するにつれ経済面で問題が発生したことも事実だ。

 それでも日常を突如遮断される事態を国民が精神面で受け入れられたのは、前述の通り、今この瞬間を生きているからではないか。昨日までと違う今日を割り切って受け入れられたのだろう。

 計画を立て、時間を守って動くからこそ企業活動をはじめとする生産的な営みが成り立つ。反面、あまりに計画的になると非常時に融通が利かず、計画を遂行できなかった場合の責任を過度に追及されるなら委縮して冒険を好まない保守的な人間が増える。

 時計もカレンダーもスケジュール帳も見ない暮らしは、確かに無駄が多く非効率だ。しかし先進国の中で自殺者がもっとも多い日本の今を考えると、「先を思い煩わない」キルギスの人たちの生き方は、人生にひとつのヒントを与えてくれているように私には思える。