とやまの土木―過去・現在・未来(36) かつて庄川で発生した天然ダムについて―天正地震(1586年1月)を例にして―
富山県立大学工学部環境・社会基盤工学科准教授 古谷 元
はじめに
前々回では、常願寺川上流に位置する立山カルデラの中で、安政の飛越地震(1858年4月9日)により「鳶崩れ」と呼ばれる大規模崩壊が発生し、天然ダムを形成した話を紹介しました。今回は、呉西地区の代表的な河川である庄川に着目し、天正地震に関連した土砂流出、特に天然ダムに関して紹介します。なお庄川は、その源流が岐阜県の烏帽子岳付近になり、岐阜と富山を貫く全長115km河川です。したがって今回は、岐阜県側の事例も交えた話になります。
庄川

写真1 庄川下流域に広がる扇状地(国土交通省水管理・国土保全局:https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0412_shogawa/0412_shogawa_00.html)
庄川は全長115kmの河川ですが、流域面積は1,189㎢であり、その93%が山地を流下し、下流部で砺波平野の一部になる扇状地を形成しています。扇状地地形が発達している箇所は、上流域での土砂生産が活発であることを示します。一般的にこの地形の形成では、河道が大きな氾濫の際に水が流れやすい方向へ振られ、扇形の土砂堆積域が発達します。

図-1 庄川下流域の扇状地と旧河道(国土交通省水管理・国土保全局:https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0412_shogawa/0412_shogawa_01.html)
庄川本川における扇状地は、飛騨高地の北縁部付近に位置する旧庄川町の合口ダムの南側を扇頂として広がっています(写真1)。ここから北側を概ね庄川の下流域とされていますが、庄川の河道は、扇状地の東縁部付近を通り、旧新湊市街地の西側で日本海に注ぎます。そのため現在の河道は、地形的には少々いびつな形状です。
庄川の扇状地には、旧河道が大きく分けて4本存在したと考えられています(図1)。現在のいびつな河道の地形は、1670年に加賀藩が高岡城下等への水害を防ぐために、扇頂部で現河道へ庄川の本流を流す工事(堤防の築造)を44年かけて行ったことによるものです。中流域より南側(飛騨高地側)では、庄川峡など切り立った峡谷が多く、 1930年に完成した小牧ダムをはじめとして本川・支川に発電を主目的にしたダムが建設されています。
天正地震
1586年1月に中部地方から北陸地方にかけて非常に大きな内陸直下型の地震が発生しました。この地震では、富山、岐阜、愛知の平野部で液状化や伊勢湾での津波、飛騨高地で大きな地すべり(崩壊)が発生しただけではなく、京の都でも大きな揺れがあったことが知られています(井上、2019)。天正地震は、被害範囲が非常に広域ですが、近年の歴史資料の検討事例により複数の断層が連動した地震(1月16日:庄川断層帯の一部を震源:M7.0±0.2、1月18日:養老断層周辺を中心にM7.8~8.0)の可能性が高いとされています(松浦、2011)。

図-2 前山地すべり(崩壊)と帰雲山地すべり(崩壊)の位置(野崎ほか,2005)
富山県内の平地での代表的な災害例は、旧福岡町木舟の木舟城(城主は前田利家の末弟秀継)が陥没・倒壊し、秀継は多くの家臣とともに圧死したことが知られています(前者の地震の可能性が高い)。庄川流域では、前山、帰雲山(きうんざん・かえりくもやま)の地すべり(崩壊)が発生したことが伝えられています(図2)。これらの地すべりに関しては、井上(2019)や野崎ほか(2005)が詳細な文献および現地調査を展開しています。
前山地すべり
前山地すべりは、図3に示すように扇状地の扇頂部に拡がる旧庄川町市街地の上流側に位置し、土砂が抜けた大きな谷地形を呈しています。この地すべりの脚部には、庄川が大きく蛇行し、斜面を侵食しやすい地形になっています。前山の地すべりの対岸(庄川の右岸)は、落シ地すべりになり、富山県により地すべり防止工事が行われた箇所になります。野崎ほか(2005)によると前山地すべりは、大きく分けて2つのブロックがあり、東側に未崩壊部、西側に崩壊部が推定されています(図4)。前者の規模は、幅が約1,000m、長さが約350mになります。

図-3 前山の全景図(Google Earthに加筆,修正,高さは1.5倍に強調)

図-4 推定される前山の地すべり(崩壊)の範囲(野崎ほか,2005に加筆:1/25,000地形図「城端」・「山田温泉」)
これに対して抜け落ちた西側の部分は、幅が平均で約500m、長さが約1,000m、移動土塊の層厚が平均10mになります。対岸の庄川右岸に残っている移動土塊の痕跡から地すべりの土塊は、現在の河床から高さ約50m程度までせり上がったものと推定されています。このような移動状況なので、庄川の本川はせき止められて天然ダムが形成されました。このせき止めにより下流側では、川魚が手づかみでとれるほどの水量の減少があったようです。この天然ダムは、20日経過して少しずつ越流、侵食したために飛越地震時の常願寺川の例と異なり、甚大な土砂災害には至らなかったようです(井上、2019)。
帰雲山地すべり
帰雲山地すべりは、前山地すべりの上流約45km、岐阜県白川村に位置し、庄川の右岸斜面になります(図5)。国道156号線を南下し、鳩谷ダムを越えてしばらく進むと左手に大きく崩れた山肌が見えてくる所です。天正地震が発生した時代の帰雲山周辺は、庄川左岸に戦国武将の内ヶ島氏理(うちがしまうじまさ)の居城と城下町が広がっていたと考えられています(残念ながら正確な位置は、まだ分かっていません)。

図-5 帰雲山の全景図(Google Earthに加筆,修正,高さは1.5倍に強調)

図-6 帰雲山の地形と堆積物の分布(電子国土webに加筆,地形判読結果は都市圏活断層図「白川村」)
天正地震により帰雲山で大規模な地すべりが発生し、流下した土砂が庄川を越えて内ヶ島氏理の居城と城下町(300戸)を一瞬にして埋没するとともに、氏理をはじめとした内ヶ島一族が滅亡したと伝えられています。この地すべりの発生域の推定に関して、現在のところ2つの説が挙げられています。ひとつは、図5に示した現在も生々しく残っている崩壊箇所(図中の白い山肌の箇所:例えば柳川ほか、2017)、もうひとつは、この崩壊に隣接する大きな谷地形の箇所になります(図5、6)(井上、2019;安間、1987)。
前者は、白い山肌の箇所で流出した土量に基づいた検討より、国道156線付近まで移動土塊が到達したと推定しています。一方後者は、城下町を埋没させるには前者の箇所での土砂流出量では少なすぎること、地形判読より国道を挟んだ二段の平坦面に流山(ながれやま:丘や小山が形状を保ちながら移動したブロック)が移動土塊と推定しています(図6)。
現時点では、どの説が正しいのかは不明ですので、今後の調査・解析が待たれます。ただし帰雲山地すべりは、前山地すべりと同様に庄川をせき止めて天然ダムを形成し、奇しくも20日後に決壊しました。なお帰雲山の近隣では、三方崩山でも天正地震時に発生した地すべり(崩壊)により庄川支流の大白川で天然ダムを形成しています。
おわりに
今回は、庄川に注目して天正地震(1586年1月)時の地すべりにより発生した天然ダムの事例を紹介しました。ところで庄川の本支川は、大正~昭和にかけての電源開発により多くのダムが建設され、河道部や河道脇の地形がダム湖の中に沈んでしまった箇所が多い状況です。それでも一部の箇所では、深い峡谷に沿って小さな平坦面や、緩傾斜地を所々で目にすることができます。これらの代表的な地形が河岸段丘であり、地すべりです。河岸段丘は、全てのケースではありませんが上流部や谷壁側からの流入した土砂(地すべり、斜面崩壊、土石流)が堆積し、河川の侵食により形成されます。

図-7 見座・相倉地区の全景図(Google Earthに加筆,修正,高さは1.5倍に強調)
富山県内の合掌作り集落のひとつである相倉地区は、見座地区と併せて地すべり地(見座・相倉地すべり:図7)の上に集落が広がっています。かつてこの地すべりでは、地すべり対策事業として実施された調査ボーリング結果より、斜面の中から段丘、扇状地、および湖沼の堆積物によく似た性状の土砂が出てきています( (社)日本地すべり学会地すべり2003とやま実行委員会、2003)。
通常、斜面の中で段丘堆積物や湖沼堆積物が見つかるのであれば、過去に河道とその周辺部で土砂が溜まっていた状態があったことが予想できます(特に、湖沼堆積物であれば、川がせき止められた可能性が想定されます)。このような土砂移動が地震によるものなのか豪雨によるものなのかは分かりませんが、庄川では、大昔より土砂が溜まっては川をせき止め、そして土砂が流されることが繰り返されていたのかもしれません。読者の皆様が庄川沿いへ行かれる機会があれば、川の流れと土砂の流出について思い出して頂ければと思います。
参考文献
安間荘(1987):事例から見た地震による大規模崩壊その予測手法,北海道大学大学院理学研究科学位論文,205p.
井上公夫(2019):歴史的大規模土砂災害地点を歩く(そのⅡ),天正十三年(1586)の天正地震による土砂災害,丸源書店,pp. 1-15.
松浦律子(2011):天正地震の震源域特定:史料情報の詳細検討による最新成果,活断層研究,35号、pp. 29-39.
野崎保・井上裕治(2005):天正地震(1586)による前山地すべりの発生機構,日本地すべり学会誌,第42巻第2号,pp. 13-18.
(社)日本地すべり学会地すべり2003とやま実行委員会(2003): 11見座・相倉,とやまの地すべり2003, pp.44-45.
柳川磨彦・北川正良・平林大輝・板野友和・横田浩(2017):帰雲山周辺の大規模崩壊と河道閉塞に関する実態の分析,平成29年度砂防学会研究発表会概要集,pp. 682-683.
ふるや・げん 千葉県出身。京都大学大学院理学研究科修了後、京都大学防災研究所、日本工営株式会社、新潟大学災害・復興科学研究所等を経て着任。自然災害科学、土木地質学、地盤工学、応用地球物理学等を専門とする。