キルギスからの便り(6) ひらがなの力
在キルギス共和国 倉谷恵子
7歳、8歳でひらがなを書くことができる-日本の子どもなら当然のことだが-、これが日本語を使わない国に住む外国人であったなら、少しばかり拍手をおくりたくならないだろうか。手前味噌で申し訳ないが、私がキルギスで教えている小学校2年生の子どもたちのことである。
1クラス20名前後で4クラスあるなか、50音すべてを記憶していて手本を見ずに書ける子どもはまだ1割に満たないが、授業回数を重ねれば半年、1年後には何も見ないですべてのひらがなを書ける子どもの数はもっと増えると踏んでいる。
一昨年の9月にキルギスで日本語教師として働き始め、1年生の担当に決まった時、ひらがなを教えるべきか迷った。10歳に満たない子どもの外国語学習は、文字よりも音に慣れることを優先すべきと考えていたし、母国語であるロシア語のアルファベットすら満足に書けない子もいるのに、日本語の文字を教えれば混乱しかねないとも思った。しかし幸か不幸か1年生から10年生まで等しくひらがなを教える方針になり、1年生は1回の授業で1文字ずつ教えていくことになった。
1年生にひらがなを教える時間は45分授業のなかで毎回15分程確保し、まず50音すべてを読ませた後、ノートにその日の字を10回ずつ書かせる。「ね」の文字を教える日なら「ね」を10回書いた後、「ねこ」という言葉を教え、猫の絵を描かせる。ただこれだけのルーチンだ。
しかし「言うは易く行うは難し」。「さあ書きましょう。黒板を見てください。いいですか、いち、に、さん…」と大きな字で私が黒板にひらがなを書き、書き順を口にしている背後で、子どもたちは好き勝手な絵を描いたり、友達とおしゃべりをしたり、物差しでたたき合ったりの騒ぎである。それでも、じっとこちらを見つめる一握りの真面目な子どもがいる限り、あきらめることなく書き順を口にしながら黒板にひらがなを書く。
その後順番に生徒の席を見周り、ノートを開く気のない子どもにはノートを開かせる。「先生、書けなーい」と甘えている子どもには、手を持って一緒に書き「ほら書けますよ、練習しましょう」と言って一文字でも書かせる。やる気のある子は「書きました!」と元気よく手を上げてくるので、書いた字を確認して、形や書き順を直す。1クラスは20名以上いるので、言うことを聞かない子どもをたしなめつつ、各自のノートに目を配るとなると、体力も神経もかなり消耗する。
面白いことに、日本語に触れたことのない子どもたちが書く字は日本人とは明らかに違う部分が多い。まず書き順を守らない。守らないというより書き順の概念がない。見事に違う部位から書き始めるし、下から上に、右から左に書く子どもがおどろくほど多い。例えば「う」や「え」ならほぼ9割の子が上の点を最後に書き、ひどい場合には、10回書きましょうと言うと、先に2画目の下の部位だけを10個書き、最後に1画目の点をまとめて打っていく。
形の間違いの代表例としては「ほ」や「は」の1画目と2画目以降を左右に大きく離して書くのが多い。極端な場合「ほ」は「し」と「ま」の2文字を書いたかのように見える。「ゆ」と「わ」の区別がつかない字もあるし、「さ」の傾きが極端になって「け」に見える例もある。
おどろいたのは「す」や「む」で、くるりと円を描く部位を後から付け足して書く子が続出したことだ。図形として形をとらえているから、そのような書き方が生まれるのだろう。授業中にしっかり黒板を見て、書き順を頭に入れればそんな間違いは起こらないと思うが、そうとも言い切れない。最初は真面目に黒板を見てノートに写した子も、ノートだけを見て何度も書いているうちに、いつの間にか自己流になってしまうらしい。書き始めの1字目と10字目の形が大幅に異なる場合が結構ある。
書き順が示された既成の練習プリントも日本の子どもには役立つが、こちらの子どもには効果は薄く、私が何度もしつこく直し続けることで、少しずつ正しい形と書き順を身につけ始めている。
1年生の書きたがらない子どもを見ながら、当初は「やる気のない子に書かせても、苦痛でしかないだろう」と思っていた。しかし平仮名を教え始めてから半年ほどすると「文字は教えるべきだ。子どもには可能性と好奇心がある」と思い始めた。授業開始時に子どもたちが「今日はどの文字を書くの?」とうれしそうに聞いてくるようになった。書きたがらない態度の子どもも、それは遊びたい気持ちが大きいだけであって字を書くこと自体を嫌っている訳ではないことが何となく分かってきた。
1年生の授業で新しい歌を教える予定だったのに、うるさくてとても教えられる雰囲気ではない日があった。その時、かわりにひらがなの「あ」から「こ」までを10回ずつ書く練習をさせた。字の練習はいわばお灸をすえるつもりだったのだが、生徒は意外にもすんなりとひらがなの練習を始めた。私が各自の字を直していくのも「ああ、なるほど」という顔で素直に納得しながら書き直していた。単なる気まぐれかもしれないが、字を書く面白さに目覚めた子は少なくないようだ。
ひらがなを教えることは、単に文字を書くだけでなく、発音を教えることでもある。ひらがなはほぼすべて母音と子音の組み合わせで1つの字と音であり、英語やロシア語のアルファベットとは異なる。この概念を耳と口で覚えることは、発音を覚えることにつながる。英語の発音にカタカナでふりがなをつけるとまったく違う音になるのと同様、ひらがなにもロシア語のアルファベット(キリル文字)でふりがなをつけると、日本語の発音からほど遠くなる。