【山根青鬼画業70周年展】14歳のデビューから今も現役で活動、これまでの歩みとエピソードを語る

 昭和初期に人気を博した漫画「のらくろ」の作者・田河水泡の弟子で、作品を継承した「のらくろトリオ」の一人、山根青鬼氏の「画業70周年展」が2019年11月30日から12月22日まで東京江東区の森下文化センターで開催された。

 江東区は田河水泡が青年期を過ごしたゆかりの地で、森下文化センター1階には作品や書斎机などの遺品を常設展示する「田河水泡・のらくろ館」がある。「山根青鬼画業70周年展」ではデビュー作「北日坊や」(北日本少年新聞)、田河水泡からの「のらくろ漫画創作継承の承諾書」をはじめ、現在に至るまで70年間描いてきた約230点の作品原画や単行本、連載雑誌などが展示され、多くの人でにぎわった。

 会期中の12月8日には、山根氏の一門を代表してのむらしんぼ、岸田尚の両氏とともに記念のトークショーが行われた。山根氏の生い立ちから田河水泡との出会い、これまで描いてきた作品とマンガへの想いや出会ってきた人たちとのエピソードにも触れながら、84歳の今もかくしゃくとして現役にある山根氏の温かな人柄にも接した時間だった。本稿は当日の山根氏の話を要約したものである。

田河水泡先生との出会い

 私は双子の兄弟として東京の赤坂に生まれた。1945(昭和20)年に母の郷里である富山県朝日町に移ってから17歳まで育った。4、5歳で絵心が芽生え、いつも白墨で軍艦や飛行機の絵を描いていた。田河水泡先生が連載していた漫画「のらくろ」はその当時から子どもたちに人気で、私も大好きだったから真似をして描いていた。その田河先生から後日(1989年)に「のらくろ」の執筆権を継承したのだから、本当にありがたい話だ。

 中学生の頃、学校新聞で漫画を描いていたら、地元富山の北日本新聞の目に留まり、すぐに北日本少年新聞で4コマ漫画の掲載が始まった。「双子の天才」と地元で話題になり、それを知った「家の光」という雑誌が私たち兄弟のことを田河先生に紹介したところ、先生は東京からわざわざ富山まで私たちの様子を見に来てくれて「卒業したら東京へ来なさい」と言われた。その言葉どおり、中学卒業後に上京した。

 青鬼、赤鬼のペンネームは田河先生が1950年につけてくれた。生まれたときに区別がつかないほどそっくりの双子で、産婆さんが「兄さんのへその横に青いあざ、弟には赤いあざがある」と両親に伝えたことにより2人の見分けがつくようになったという。その話を田河先生は気に入り、日本の童話には大抵鬼が出てくるから、子どもたちに強い印象を与えられるように青鬼、赤鬼と名付けてくださった。

 父はかわいいわが子に「鬼」とつけるとはけしからんと反対したが、先生が「2人は鬼のような気持ちで仕事にまい進するだろう。あなたは実の親だが、漫画の世界では私が親のようなものだから信じてほしい」と説いたので納得した。

 上京してすぐに連れていかれたのが飯田橋にあった学童社の月刊漫画雑誌「漫画少年」の編集部だった。廊下に本が山積みになっていて、こんなにたくさんの本を作っている出版社はすごいなあと思った。後になってそれらはすべて返本だったと知り苦笑したものだ。いつも昼食にカレーライスをとってくれ、食べ盛りだった私にはそれが編集部へ行く楽しみでもあった。

 編集長の加藤謙一さんから手塚治虫先生を紹介された日のことは忘れられない。その日、先生はカンヅメで「ジャングル大帝」を描いていた。私たちの頭をさすって「これからがんばるんだよ」と言われた。とても緊張したが、漫画少年に来て良かったと実感した。その後、手塚治虫先生とは日本漫画家協会の代表として一緒に中国へ行き、大歓迎を受けたこともある。

沈黙の教育

 田河先生のもとで弟子として漫画を書き始めたが、当初、先生は何も教えてくれなかった。褒めることも悪いことも言わなかった。のらくろの描き方についてさえ「自分で外へ行って犬を見てこい」と言うだけだった。先生に「よし」と言ってもらえるように、ひたすら自分なりに努力を続けた。

 そんな状況が3年間続いたある日、先生は大きな風呂敷包みを我々の前に持ち出してきて「毎週20本描き続けた4コマ漫画はすべて面白かったよ」と言われた。風呂敷の中には私たちの描いた漫画が大切に保管してあった。自分自身で考えるため、淡々と沈黙の教育を施してくださったのだ。

 私たち以外にも「サザエさん」で有名な長谷川町子さんや「猿飛佐助」の杉浦茂さん、「あんみつ姫」の原作者倉金章介さん、滝田ゆうさん、森安直哉さん、ツヅキ進さん、伊東莫さん、野呂新平さん、私たちとともに「のらくろ」の執筆権を譲り受けた永田竹丸さんなど多くの弟子がいて、何度かお会いした方もいれば、1、2回お目にかかっただけの方もいる。

 田河先生は弟子たちに向けて「滑稽研究会」として毎月講義を行っていた。手刷りの原稿を渡されて、滑稽やユーモアについての話を聞くのだ。当時は何を言っているかよく分からなかったが、後で原稿を読むと今の漫画にも通じる良いことがたくさん書いてあって勉強になっていたと思う。

 田河先生の沈黙の教育が続いた3年ほどは大きな仕事はなく、漫画少年の他にきんらん社や太平洋文庫などの貸本漫画向けに細々と仕事をしていた。映画の台本を漫画に描いたりもした。150ページの貸本を1冊書いて1万5000円がもらえたので、月1冊のペースで描けば、当時としてはそれなりの収入になった。

 当時の同世代の若手漫画家たちとも親交は深く、手塚先生が住んでいた伝説のアパート「トキワ荘」の住人たちと合作漫画を手掛けたりもした。藤子不二雄のコンビや赤塚不二夫さん、石ノ森章太郎さんなどが住んでいたトキワ荘には、私たちも入りたい気持ちはあったが、父が反対した。入居するとトキワ荘の色に染まってしまうというのが理由だった。父から青鬼、赤鬼の個性を出すようにと言われ、入居しなかったことで、結果的には私たちの個性を生かせたと思う。トキワ荘の新人漫画家を中心に結成された「新漫画党」にも、画風の違いから加わらなかった。