とやまの土木-過去・現在・未来(17) 立山カルデラにおける土砂流出防止の歴史
富山県立大学工学部環境・社会基盤工学科准教授 古谷 元
はじめに
「とやまの土木-過去・現在・未来(2)水荒の地、富山の特性と治水」では、”富山の平地の主役は扇状地”という話があがっていました。前回の話では、扇状地は上流から流出した土砂が、斜面脚部付近に溜まって形成することを触れました。
県都である富山市は、常願寺川や神通川から供給された土砂の扇状地の上に位置しています。読者の皆様の中では、中央通り商店街のアーケードを歩くと、微妙に坂道になっていることを気づかれた方もいらっしゃると思います。これは、過去から現在までの長い歴史における土砂の堆積を物語っていることのひとつと思われます。
今回は、概略的にはなりますが、常願寺川の源流部である立山カルデラの土砂流出防止に関する歴史について話を進めます。
立山カルデラ
カルデラという言葉で読者の皆さんは、阿蘇火山のような大きな窪地を想像されるかと思います。カルデラの由来は、スペイン語の「鍋」や「釜」から来ていて、これらの窪んだ形状が、大きく窪んだ地形の用語として使われています。
カルデラは、一般的には大規模な噴火で山体内部から軽石等の噴出やマグマが移動した後に、空洞になった箇所が陥没して形成されると考えられています。その他には、もともとの火山体が侵食・崩壊等によって窪地が形成される場合(侵食カルデラ)も考えられています。現在、立山カルデラは、後者のタイプとして考えられています。その大きさは、東西約6.5km、南北約5.0kmの規模になります。
土砂流出
立山カルデラ内では、1858(安政5)年4月9日に発生した飛越地震(M=7.3~7.6)により、大鳶・小鳶で鳶崩れと呼ばれる大規模崩壊が発生しました(図1、写真1)。この崩壊により、カルデラ内では常願寺川の源頭部、湯川や真川を堰き止めて天然ダムが形成されました。

図1 立山カルデラの地形図(国土地理院 電子国土webに加筆)

写真1 六九谷展望台から鳶山方向の全景
この地震の2週間後になる4月23日と約2カ月後になる6月7日に、この地震で形成された天然ダムが決壊して土石流になり、常願寺川を流下して富山平野(城下)で甚大な土砂災害を引き起こしました。田畑ほか(2000、2002)によると、それぞれの土石流は図2に示す範囲に及んだと推定されています。

図2 1858(安政5)年4月23日よ6月7日に発生した土石流の氾濫範囲
(田畑ほか(2000)、田畑ほか(2002)に加筆)
これらの土石流の後、常願寺川は非常に荒廃しただけでなく河床が上昇して天井川になり、洪水、土砂災害が繰り返されるようになりました。この繰り返しに対して、明治維新後に加賀・能登と越中との間での認識の違いが遠因になって、現行の富山県は、1883年に石川県から分離したことが知られています。
また、鳶崩れの土砂は、全てが下流域へ流下したのではなく、今なお、カルデラ内に100m以上の厚さで不安定な状態で堆積している箇所もあります。その量は、諸説はありますが、およそ2億㎥と考えられています(鳶崩れより前に発生したと考えられている大崩壊の土量を入れると、少なくとも7~8億㎥)。仮にこの2億㎥の土砂が流下するとすれば、富山市内は厚さ2mの土砂で覆われると言われています。
土砂流出防止に関する努力 黎明期
富山県は、常願寺川の氾濫が絶えないことにより1906(明治39)年に県営砂防事業に着手し、カルデラ内での土砂流出の対策を進めました。浅井ほか(2010)によると県営事業時代には、332箇所の砂防施設が施工されたことが指摘されています。そのうち、わずかではありますが、破損等も含めて30箇所の施設が現存していることが確認されています。最近では、今年の3月27日に立山砂防事務所が、カルデラ内西側の西谷で県営事業時の堰堤21箇所と水路が現存していることを発表しています。

写真2 決壊した湯川第一号堰堤(1922年)(国土交通省立山砂防事務所)
この時期に土砂流出防止の要の場所のひとつになる湯川第一号堰堤(後の白岩堰堤施工箇所:写真2)のほか、多くの砂防施設が施工されましたが、1919(大正8)年と1922(大正11)年の土石流により壊滅的な被害を受けました。
読者の皆様はご存じの通り、立山の気象条件は厳しいです。そのため、年間を通じて砂防工事を実施できる期間も大変短いのです。このような悪条件下で富山県は、土砂流出に関する対策を実施してきましたが、難しい工事の上に膨大な費用に苦慮することになりました。以上の背景のもと、1926(大正15)年に内務省(現在の国土交通省)の直轄砂防事業として引き継がれました。
直轄砂防事業
この事業では、砂防・治山*技術の最先端国であるオーストリアの留学から帰国した赤木正雄博士(日本における砂防の父と呼ばれることがあります)が担当されました。
赤木正雄博士は、入念な現地調査を行い、土砂流出対策の基幹になる大規模な砂防堰堤を設置したうえで、上流側に複数の砂防堰堤を配置する計画を立てました。この大規模な堰堤が現在の白岩堰堤になり、カルデラの出口に位置する湯川の狭窄部(上述した湯川第一号堰堤付近)に建設されることになりました。

写真3 白岩堰堤の全景(国土交通省 立山砂防事務所)
写真3が白岩堰堤の全景になります。この堰堤は、本堤を守る副堤を含めて高さが108m(本堰は63m)であり、ともに日本一の高さになります。構造は重力式コンクリート堰堤(通常の砂防堰堤の形状とは異なります)とアースフィル(盛土とコンクリートの方格枠〈角柱の組み合わせ〉で構成)を合わせたものになります。
このような複雑な構造になった理由は、コンクリート堰堤側(湯川の右岸側)には基礎になる硬い岩盤が存在しているのですが、アースフィル側(同左岸側)は土砂の堆積層になっているからです。この箇所は、地形的には土砂を止めるためには有利な条件ですが、地質的にはあまり好ましくない条件です。しかしながら、当時の技術を駆使して堤体が破堤しないように2種類のタイプを合わせた方策は、非常によく考えられていると思います。
白岩堰堤は、工事に10年の歳月を掛けて1939(昭和14年)年に竣工しました。今年でこの堰堤は、傘寿を迎えましたが、未だに現役で土砂流出防止に関する機能を発揮しています。本来ならば、読者の皆様に是非見に行ってくださいと言いたいところですが、現在もカルデラ内では工事が継続していますので、一般の方の入場が原則としてできません(カルデラ博物館等のイベントに申し込まれれば、堰堤そばでの見学が可能になります)。心苦しいのですが、この写真で当時の苦労を察していただきたいと思います。
白岩堰堤の上流側には、数多くの砂防施設が施工されていますが、そのうちで泥谷の砂防堰堤群を紹介します。泥谷から流出する土砂も、鳶崩れで生成されたものになります。この谷も、非常に活発な土砂流出が生じていたために、1906(明治39)年に県営事業の一環として、10年の歳月を掛けた堰堤群の工事が始まりました。
しかしながら、1927(昭和2)年、1929(昭和4)年の豪雨による土石流により、多数の堰堤に大きな被害が生じました。1930(昭和5)年に県からの委託として、内務省による直轄工事が始まり、1933(昭和8)年に階段式の22基の砂防堰堤が竣工しました。
その後も被災と災害復旧工事の繰り返しが続きましたが、1966(昭和41)年に堰堤の嵩上げや護岸工等の工事、1984(昭和59)年に泥谷砂防堰堤群の上流側に泥谷基幹砂防堰堤を施工(工期は4年間)し、現在では、土砂の流出がだいぶ収まっている状況です。その様子を示したのが写真4になります。

写真4 泥谷砂防堰堤群の変遷
左から1931(昭和6)年における富山県施工の堰堤群の被災状況、1933(昭和8)年における直轄砂防工事後の堰堤群の竣工状況、現在の堰堤群の状況(国土交通省 立山砂防事務所)
この写真を見ますと、左側の2つが白っぽい色、すなわち土砂(土石)が被っている状況が分かりますが、右側の現在では緑で覆われています。これは砂防施設(ここでは、堰堤・護岸工のほか、斜面に山腹工を実施しています)を設置することにより、植生が回復していることが分かります。泥谷自体が鳶崩れの土砂の上にありますので、完全に安定な地盤であるとは言い切れませんが、少なくとも土砂流出を抑制し、砂防工事の効果が発揮している例と思います。
カルデラ周辺の状況
今回は、カルデラ内の代表的な砂防施設を取り上げ、土砂流出に対して機能が発揮されていることを述べました。しかし、これで常願寺川下流域の安全が未来永劫に続くと思われると非常に危険と考えます。立山カルデラは、内部に昔の土砂が不安定なまま溜まっているだけでなく、周辺部の地形に新たな土砂生産が生じる可能性を示すものがあります。

写真5 室堂山周辺部とカルデラ内部
例えば、写真5がその一例と言えましょう。この写真は、室堂山の展望台からカルデラ内部を撮影したものになります。カルデラ壁を挟んで写真の左側は、湯川(カルデラ内部)になります。カルデラ壁の背後で、氷食の痕跡(氷河期に氷床〈氷河?〉の移動によって斜面が削られた可能性が考えられる箇所)と記載している横に、連続して窪んでいる微地形が認められます。これは線状凹地と呼ばれるものです(この例では、規模が小さいので1:25,000の地形図による読図では、難しい状況です)。
この地形の形成は、大規模な崩壊の落ち残り、もしくは重力によって斜面が下方へ非常にゆっくりと変形したもの(現在の計測器では、詳しい速度を測るのが難しいと思います)と思われます。いずれにせよ、いつ落ちるのかは分かりませんが、不安定な状況であると考えられます。言い換えますと、新たな土砂の流出源が控えていることを意味します。したがって、このような箇所の存在も注意を払う必要があると思います。
おわりに
立山カルデラにおける土砂流出の対応は、現在でも継続していますが、今回紹介した施設は、施工してから100年近くになり、昭和初期の砂防技術の達成度を示すものとして非常に重要なものになります。特に、これらは現在でも機能しているところが特筆的になります。
これらは、本宮砂防堰堤(日本最大級の貯砂量を有します:カルデラ外ですので、見学は可能です)と合わせて重要文化財に指定されています。さらに、富山県を中心として、防災遺産でもある立山砂防の歴史的砂防施設群の世界遺産登録を目指しています。
私たちの生活では目にしない歴史的な砂防施設が、富山平野の防災を担っていることは、先人の苦労と歴史的ロマンを併せ持つ他にはない貴重な宝物と思います。普段、私たちは、何気なく生活をしていますが、このような施設の恩恵であることを思いだしていただければ幸いです。最後に、資料の一部は、国土交通省立山砂防事務所よりご提供いただきました。本稿を借りて御礼を申し上げます。
注
治山*:砂防と同様に土砂流出を防止する技術分野になりますが、対象とする目的が異なります。今回の話では、“土砂流出の防止”の意味合いで同じものとして扱います。
参考文献
朝日新聞デジタル:富山)明治・大正期の砂防設備を発見 立山カルデラ、2019年4月1日配信(https://www.asahi.com/articles/ASM3W3PLGM3WPUZB009.html).
浅井誠二・中村貞敏・佐渡 正(2010):県営立山砂防施設調査、立山カルデラ研究紀要第11号、pp. 1-10.
地形学事典(1981):二宮書店、767p.
井上公夫(2018):歴史的大規模土砂災害地点を歩く、丸源書店、263p.
田畑茂清・水山高久・井上公夫・杉山実(2000):鳶崩れ(飛越地震、1858)による天然ダムの形成と決壊に伴う土砂災害の実態、砂防学会誌、第53巻1号、pp. 59-70.
田畑茂清・水山高久・井上公夫(2002):天然ダムと災害、古今書院、206p.
丸井英明(2016):オーストリアの治山技術の歴史―その変遷と日本への影響―、フォレストコンサル、No. 146、pp. 9-23.
ふるや・げん 千葉県出身。京都大学大学院理学研究科修了後、京都大学防災研究所、日本工営株式会社、新潟大学災害・復興科学研究所等を経て着任。自然災害科学、土木地質学、地盤工学、応用地球物理学等を専門とする。