裁判員制度創設の苦い思い出

 これについて、裁判官側(最高裁)は裁判官3名、裁判員1名、一方、弁護士側(日弁連)は裁判官1名、裁判員12名を主張した(裁判員制度の導入が裁判の長期化問題解決に役立てばいいと考えていた検事側〈法務省〉は、裁判員の数については明確な主張はなかった)。

 最高裁と日弁連の主張の対立は、もともと日弁連は裁判には国民の感覚が反映されるべしという強い主張であったのに対し、最高裁は裁判に国民の意思が反映されるように法律専門家でない裁判員の意見を補完的に参考にするという消極的な姿勢であったからである。

 法律専門家でない裁判員が中心の裁判と法律専門家である裁判官が中心の裁判とどちらが公正な裁判を保証するかというのは根本的な対立であり、刑の量定について裁判員を参加させるか、評決において裁判官と裁判員の意見が分かれた場合にどうするかをめぐっても、同じような鋭い主張の対立があった。

 政治家や官僚の議論では、裁判員制度の導入という方針は決まっているのだから、双方が相手の意見を取り入れた譲歩案を提示し合い合意案を作成する努力が行われることが多いが、法律専門家である最高裁も日弁連も自説を強弁するのみで、決して譲歩案を提示するということはなかった。

 これには、裁判の当事者でありながら政治家にお任せ、そのお手並み拝見と言わんばかりの無責任なもののように見えて腹が立ったこともあった。小委員会のメンバーの議論でも賛成、反対の議論は盛んだったがまとめようという雰囲気は見られなかった。

 私個人としては、小委員会がまとまらず裁判員制度の導入がとん挫する方が良いのだが、小委員長としては小泉政権としていったん決定したことをまとまりませんでしたと言う訳にはいかない。仕方がないので、ここは小委員長案を提示してそれで押し切るほかはないと覚悟を決めた。しかし、それは大変なことである。

 どんな案を提示しようと双方から激しい反対が出ることは目に見えていたので上手くいく自信はなかった。また、私を小委員長に推薦した保岡議員も但木氏も私をバックアップしてくれるわけではなく、むしろ敵対することになることも覚悟した。いわば孤立無援の中で裁判員制度について次期通常国会に法案を提出できるように小委員会報告書をまとめる決意だった。裁判員制度の導入に反対である私がそんなに張り切ることはなかったのだが、役人として培われた法案作成技能者としての本能、責任感が私をかきたてたのだろうか。今から思えば、馬鹿馬鹿しいことで、笑ってしまう。

小委員会報告書の決定プロセス

 小委員長試案は自ら作成することにした。これは大作業であった。1月をかけて長文の報告書の小委員長試案を書き上げたのは、8月末だった。試案作成の基本は、国民の負担を少なくすることに置いた。国民の大半が裁判員にはなりたくないと考えている現実を踏まえると、裁判員制度の意義、必要性を理解してもらうことは困難であり、裁判員になることによる経済的精神的負担はそれほど重くないことを納得してもらい、制度創設を我慢してもらうほかはないと考えたからである。

 裁判員制度の内容をどうするかについては様々な意見が出尽くしていたから、その中からこの基本的視点に立って取捨選択し、試案を作成することにしたのである。もちろん、制度の意義、必要性を認めない国民にそれを曖昧にしたまま我慢してくれなどということはあってはならない邪道である。しかし、制度の意義、必要性についての理解に合意が得られる見込みはなく、それを待っていては制度の導入はできなかったであろうと今も思っている。

 最大の課題である裁判員の数については、最高裁主張のように裁判員1人というのでは何のために裁判制度を設けるのかという強い反対が避けられない。といって日弁連主張のように裁判員12名というのでは国民の負担が重すぎるので裁判員は6名とし、できる限り広く辞退理由を認め、なりたくない人はならなくて済むようにした。また、裁判員が判決(特に死刑判決)を下すことの精神的負担をあまり感じなくて済むように、裁判員だけの判断で判決が決定されることを無くし、評決において裁判官が一人も賛成しない意見は判決とならないこととした。

 後日談だが、法律制定後も裁判員になることについての国民の不安は大きかったので、私は、そんなに大変なことではない理由として次のように説明していたことを思い出す。

 「なりたくなければ自由に辞退することができるし、なったとしても、専門的なことは裁判官が説明してくれるから法律が分からなくても心配する必要はない。また、判決は裁判員だけで下すものではなく、それに不服のある者は高裁、最高裁に上訴することになり、そこでは裁判官だけで判断することになるから、裁判員になったからといって判決の責任を重く感ずる必要もない」。

 小委員会報告とりまとめのスケジュールについて、夏休み明けに小委員会を開催し、小委員長試案を提示して決着をつける方針であった。これに猛反発したのが保岡議員である。事前に私の方針を連絡したところ、そんな小委員会開催は認められないと激怒されたのであった。

 私と保岡議員とはもともと考えが違っていたのであるから、これは想定されたことであった。保岡議員と私との間を仲介していた事務局の大野君らには大変な気苦労だったと思う。私は小委員長試案提出が認められなければ小委員長を辞任すると保岡議員に伝え、小委員会を開催し、小委員長試案提示を強行した。その後2、3回小委員会を開催し小委員長試案について議論し、若干の手直しを経て、小委員会報告書を決定することができた。

 保岡議員や日弁連には不満もあったろうが、私に小委員長を辞められては裁判員制度導入に支障をきたすことになること、小委員長試案とは異なる内容の報告書取りまとめには困難があることなどを考慮し、裁判員制度導入のためにはやむなしと判断したものであろう。

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