《一言半句》ワクチン戦争の責任はどこに―五輪はコロナに勝った証しになるのか
新型コロナウイルスのワクチン接種を巡り、政府と都道府県、現場を司る市町村と住民の間で混乱が続く。混乱の元凶は、国のワクチン確保の見通しの甘さと接種体制の脆弱さにある。「国民のワクチン接種を終え、東京五輪はコロナに勝った証しとしたい」―こう宣言した日本の接種率は、先進国の集まりであるOECD(経済協力開発機構)加盟37カ国中、最下位に甘んじている。それでも、パンデミックの中の東京五輪・パラリンピック開幕へ、ひたすら突き進む日本政府だが、実はかつて、ワクチンとの闘いがあった
4年後に初の東京五輪を控えた1960(昭和35)年、世界はポリオウイルスによる小児まひ(脊髄性小児麻痺)が猛威を振るった。団塊の世代前後の高齢者なら記憶にあるかもしれない。当時、日本にはワクチンはなく、むろん、開発は進んでいない。蔓延の恐怖に怯えるお母さんたちが全国各地でワクチンを求め、県庁や市町村役場、保健所に押し掛ける騒ぎになった。
この頃、世界は米ソ冷戦時代だったが、政府は奇策に出た。社会主義国のソ連(現ロシア)が日本へ生ワクチンの緊急輸出を申し出た。当然、国内で反対の声が出た。ファイザー社やソ連から生ワクチンを取り寄せ、試験的に使ってみたものの、正確な治験などなく、子供の命を守るため、いわば〝敵国〟からの輸入に踏み切った
この時、決断したのが古井喜実厚生大臣だった。記者会見で問われた古井は「どんなことが起ころうと責任は全て私にある」と語った。1,342万人分のポリオワクチンが届き、日本は瀬戸際で大流行を防いだ。あれから60年、ポリオは世界でわずかに残るが、日本は早々に撲滅したのだ。後に古井は「このような難しい病気は日頃から研究しておく必要がある」と後世に伝えている
私は1964年、東京五輪を白黒のテレビと翌日の新聞で見て、感動の記憶を留めた世代である。開会式で流れた古関裕而作曲の行進曲、バレーボールの東洋の魔女など記憶に残る数々のシーン。東京五輪は敗戦から復興した日本と全ての日本人の誇りであった。今、コロナ禍の真っただ中、だれもが「コロナに勝った」と誇らしげに喜ぶだろうか。五輪開催は打ち勝つ道具ではない。国民の多くはなお、開催に懐疑的である。「進むを知りて退くを知らず、存するを知りて亡ぶるを知らず」。国民と共に歩む政治(家)ならば、一歩立ち止まるべきである。
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