現地報告・英国のコロナ事情 (5) NHS 現場の闘い

在ロンドン マークス寿子

 NHS=National Health Service、国民健康サービス。国民健康医療制度と言ってもいい。
 1948年、第二次世界大戦後に国民全体が、お金のある人もない人も病気になったときに治療を受けることができるようにと作られた福祉政策の基盤とも言うべきものである。お金がなくて医者にかかれないということがないようにという趣旨であるから、この制度の下では失業者もホームレスも外国人も医者にかかったり病院で手術を受けたりしても無料である。いや、48年には無料であったが、今では薬をもらうときだけ処方箋料を取られる(薬は全て無料である)。

NHSへの応援メッセージ

 NHSは政府が税金で運営していると言ったら簡単になり過ぎる。今は政府直営ではなくて、独立経営になっているが、税金で賄われていることは間違いない。この税金はNIC=National Insurance Contribution と呼ばれ、収入のある人は全員払わなければならない。収入の額によって税率が決まることになっている。税金で運営されているから、国民全体がこの制度を利用することができるのであり、収入がなくてこの税金を払っていなくても利用できる。 

 国民と言ったが、英国民だけでなく外国人も利用できる。収入があれば外国人も税金=NICを払うし、なければそれでも利用できる。留学生も旅行者もできる。ただし、この頃は、この制度を悪用して、お産のために英国へ旅行に来て無料で出産をする人も多くなったから、外国からの旅行者は有料にすると決められたが、実際には費用を取られないことが多いと聞いている(よほど悪質でない限り)。

 医者や病院に行くのにお金を持たずに行けるということが、英国に来てすぐには信じられなかった。肺炎を起こして10日間入院して無料だなんて! 後で自分の収入からいくら税金が取られているか知って、それなら当然と思ったのであるが。

 このようにNHS は全国組織であるが、もう少し詳しく言えば、通常私たちが「医者にかかる」と言うときの“医者”はGP(一般医)と呼ばれ、風邪や下痢などはここで診察を受け、薬の処方箋をもらって薬局で薬をもらう。先に説明した通り、処方箋代金以外は無料である。GPでは分からない症状やさらに検査が必要と判断されればGPから病院へ送られる。

 日本と違って、自分で選んで病院へ行くことはできない。GPが病院へ照会する。すると病院から連絡があり、指定された病院へ指定された日時に行くことになる。直接病院へ行くのは救急のときだけである。病院で検査を受けたり、入院して手術を受けたりするのは全て無料(患者本人からは)である。

 ついでに言うならば、この制度の下で私立病院はないかというと、私立病院も私立のGPも少数だが存在している。NHS病院からの予約を待っていられないほど忙しい、そして金持ちの人、または自分の会社が私設の保険料を払ってくれる人、外国からの金持ちなどは有料病院を利用する。ロンドンには古くからの病院街があり、その辺は私立病院がずらりと並んでいる。一番有名なロンドン・クリニックは外国のロイヤルファミリーの専用のようになっている。

 もちろん誰でも利用できるが、猛烈に高価である。ただし、最近ではNHS病院の中に私立病棟を作ることも許されており、その場合は特別な医師― 一般医でない、特別な技術を持つ外科医などはNHSと私立病院の両方で働くことも許されている。この特別な医師はドクターとは呼ばれず、ミスターと呼ばれる。ドクターは通常GP(一般医)を指す。

患者増大に追い付かないNHSの予算

 NHSの発足当時、社会福祉当局が考えていたのは誰もが病気のとき、費用の心配をしないで医者にかかることができれば、ゆくゆくは病人が減るだろうということだった。だが、実際はその考えとは逆に病気が増え、病人が増えた。社会が豊かになり、人々の生活が贅沢になるにつれて新しい病気、糖尿病、腎臓・肝臓の病気、心臓関係の病気、そして癌が人々を襲った。  

 それと共に医学や治療の方法も進歩して、多くの病気が治療によって回復したり、完治とはいかなくても死病ではなくなった。ところが、人々は自分の健康を自分で守ることをしなくなり、病気になるまで働いたり、飲んだり食べたり、タバコを吸ったりすることが普通になった。英国では“肥満”が病気とされるまでになり、子供でさえもその傾向が現れた。肥満は病気として胃をカットする手術を受けることができるようになった。つまり、自分で自分の欲望を自制することができなくなったのである。

 こうしてNHSとその予算は拡大する一方になった。病院を拡大し、予算を拡大しても患者の増大に追いつけず、その結果、患者は救急でない限り、検査や診断や治療を長く待たなければならなくなった。NHSを何とかしなければならないという声は長く続いているが、まだ満足いくようにはなっていない。改革を言うたびにそのための手続きや官僚が増えるばかりで医者が増えたり患者が減ったりはしないからである。

 しかし、NHS病院には利点もある。それはダイバーシティの最先端と言ってもいいくらい、いろいろな国の医師と看護師が働いているということである。英語が医学界の主要用語になったことから、旧英連邦の医学関係者は英国で自由に職が得られたし、EUの国々からもNHSで働くことを希望する人が多かった。英国での医師看護師の資格は多くの国で通用するからであった。

 私が事故で腰を骨折して救急入院したロンドン南部の病院は、移民の多い地域であったために医師も看護師その他の病院勤務者もインド人、カリブ諸島の黒人などが多かったが、勿論治療や介護には問題がなかった。ただ、食事がすべてカレー食で、私はカレー系でないご飯かポテトを頼まなければならなかった。

押し寄せるコロナ患者、疲弊する看護師

 2020年3月、まだ最初のロックダウンが始まらないうちに各地の病院は新型コロナウイルスの肺炎患者の入院を受け始めた。まだろくにPPE=個人用防護具も揃っておらず、看護師も辛うじてマスクと手袋と顔カバーをしているだけだった。  

 政府はロックダウンのときでさえも、手洗い、マスク、距離を置くの3つを守備事項として挙げ、「Stay at home,  Protect NHS,  Save life」をモットーにした。すでに病院は津波のように押し寄せるコロナ患者で満ち溢れていた。手術室、道具置き場、廊下にまでベッドが入れられてコロナ患者室となった。

 そして病院が新型コロナウイルスを広げる役目もしていた。コロナ患者ではない病人や付添いや家族がコロナウイルスに曝されていたからである。ついに、ごく重症で動かせない患者を除いて全ての病人、患者を退院させた。治療中の癌患者も治療を中止、または自宅療養とされた。 

 集中治療室は通常3、4人の患者がいたが、すぐにコロナ患者で一杯になった。無理に8個、10個のベッドを入れて、通常1対1で患者の世話をする看護師は3人4人の患者をひとりで看なければならないことになった。

 集中治療室=ICUに入れられたコロナ患者はほとんどが人工呼吸器をつけられ、たくさんのパイプに繋がれ、苦痛を減らすために麻酔をかけられていた。軽い呼吸困難で入院した患者でもすぐに重い呼吸困難が起こってICUへ入れられることが多かった。

 多くの患者は高齢者だった。ICUで死者の数は50%にも及んだ。そして、1人が亡くなると、待っていた次の患者が入って、看護師たちが息をつく間もなかった。

 看護師たちは10時間から12時間働いた。患者の死亡に涙を流す暇もなく、そんな看護師は帰途自分の車の中で泣いたという。そして、彼女、彼たちは自分の家に帰るのが恐ろしかった。自分が新型コロナウイルスを持っていて家族に移すのではないかと心配したのだった。