現地報告・英国のコロナ事情(2) ロックダウンとは何か

在ロンドン マークス寿子

 第一次のロックダウンが出たのは3月23日(私の84歳の誕生日)だった。

 ロックダウンの意味も分からなかったし、都市封鎖と日本語にされても、それが生活にどんな関わりを持つのかははっきりしなかった。都市封鎖というよりも私たちの生活封鎖だった。まず商店が閉鎖された。ファッション関係の店や美容院やレストランやパブが完全に閉鎖された。商店は薬局と食品関係の店、スーパーなどだけがオープンしていたが、客は必ずマスクをすること、距離を置くために一定の人数だけが入れて、一人出ると一人入る、それまで入り口で並んでいなければならなかった。

 医者、歯医者は緊急の時以外治療を受けることはできない。身体に関して問題があれば、電話で相談すること。郵便局や銀行はオープンしているが、職員の数は少なく、したがってオープンしている曜日や時間帯に制限があった。会社は原則として全て在宅勤務、一人か二人が交代でオフィスのチェックに行く。ジムや運動施設も閉鎖されるが、ウォーキングやランニング、サイクリングは一日に一度許される。

 学校は全て休校。特別支援学校や親が医療関係で働いている場合、その子供たちは登校して先生に面倒を見てもらうことができる。少人数の保育園はそれなりの準備をして子供を預かることができる。

 3月末に始まったロックダウンはすぐに春休みやイースターの休暇になったから、人々はなんとなく“長い休暇”と取っていたようだった。私達高齢者の多くはShielding という外出禁止令を受けて、買い物に行くことも禁じられたが、買い物はボランティアや友人、近隣の人がやってくれると説明された。

 気持ちのいい英国の4月5月に庭のある人は庭に寝そべってお茶を飲んだりワインを飲んだりしていた。家族内で一緒に過ごすのはいいが、他の家族とは外でしか会えない。しかも、一家族対一家族で、それ以上集まってはいけない、等々の決まりがあって、みんなあれは良いのか、これはダメなのかなどと問い合わせをしていた。

 こうして第1回のロックダウンは5月半ばから、感染者や死亡の減少を見ながら、緩和の方向へ向かっていった。

 忘れてはいけないのはボリス首相はこのようなロックダウンにあまり熱心ではなかったということ、それは彼自身が感染するまでだったが。4月初めに感染してからも彼は家に隔離されて、そこから政治を行っていたが、医療関係者が彼の顔色を見てかなり重症だと判断して緊急病棟に入れた。その後の経過では人工呼吸器こそ使わなかったが、かなり危なかったということで本人も真剣に療養せざるを得なかった。

 6月末にはほぼ全面的に解除されたが、それでも、2メートルの距離を置くこと、マスクをすること、手を洗うこと、などの守備事項は守られなければならなかったから、レストランもテーブルの間を広く取り、パブはなるべく外で飲む、など自制の態勢は崩さなかった。

 私達多くの人間が一番嬉しかったのは美容院で髪を切ってもらえたこと、男性も同様だった。

 バスや地下鉄や列車なども人数制限をして満員にならないようにしていた。それでも夏の気候のいい時に久しぶりに外食が奨励され、曜日によっては食事代金の半額は政府が出してくれるなどのオマケがあって、みんな夏を楽しんだようだった。

マークス寿子(マークス・としこ) 
1936年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、東京都立大学法学部博士課程を修了。71年LSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)研究員として渡英。76年、マイケル・マークス氏と結婚。英国籍と男爵夫人の称号をもつ。85年に協議離婚。その後、エセックス大学日本研究所、秀明大学教授を歴任して現在ロンドン在住。著書に「英国貴族と結婚した私」「『ゆりかごから墓場まで』の夢さめて」「大人の国イギリスと子どもの国日本」「ひ弱な男とフワフワした女の国日本」「行儀の悪い人生」などがある。2018年4月号まで月刊誌「実業之富山」で「西の島より」を連載。