とやまの土木―過去・現在・未来(48) 富山が生んだ測量技術者-石黒信由の多角網
多角網の利用
交会法は伊能忠敬も使用しており、海岸線の正確な描写に大きく寄与しています。ここからは私の推測なのですが、内陸部も細部にわたって測量した信由は、交会法に加えて、伊能忠敬が用いなかった手法を用いて地図の補正を行っていた可能性があります。
改めて野帳を見直してみましょう。道線法では位置が定まっている点からの距離と方向により次の点の位置を定めます。一点から複数点を測る場合はあっても、複数点から一点を測る必要は、原理的にはありません。ところが、例えば先ほども見た「布目」は「高木」から測線が伸びているのに加え、「五」からも距離4町、方位丑10度の測線が伸びています。さらに言えば、「高木」は「六」を経由して「五」から測られているわけですから、「布目」は「五」からの2つの測線により測られていることになります。ページ右上の「安吉」も同様です。

図6 図4の上部左側にみられる環閉合
全周2091mの環で33mの閉合差であり、当時の機材の水準から言えば高精度といえる。
現代の測量では、このように一点から2方向に伸びる測線が一点で交わる(あるいは一点から出た測線が複数測点を経由して元の点に戻る)形態のことを「環閉合」と呼びます。誤差がなければ測線は一点に収斂し、閉じて合わさった完全な環となります。しかしどんなに正確に測っても誤差は出て環は閉じません(図6)。輪が開いている大きさは「閉合差」と呼ばれて精度の目安となりますし、輪が閉じるように観測された距離や角度を調整してやることにより、環上の点の相対的な位置関係は真の値に近づきます。
辺を共有する環が複数あれば、すべての環が同時に閉じるようにしなければならないので、調整のための条件はより厳しくなり、調整結果はさらに真値に近くなります。そうした環の組み合わせを「多角網」、多角網が閉合するように調整することを「網計算」と呼びます。

図7 新湊から小杉周辺にかけての測線の概略
網計算は現場での観測と並んで、高い精度を確保するために欠かせない技術です。複雑な計算を要する網計算が江戸時代にどこまで可能であったか、門外漢である私にはわかりません。しかし、野帳の中では測線同士が執拗に結びつけられ、複雑な網を形成しています。精度向上が目的であったとしか考えられないのです。図7は新湊から小杉周辺の測線を大まかに抜き出したもので、現代の多角網(図8)とよく似ています。
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図8 福井市が地籍調査のために作成した多角網の平均図(一部)
石黒信由と測量
こうした多角網の利用は、「廻分間(廻検地)」と呼ばれる田畑を測量する手法から着想したものではないかと推測しています。信由が測量を始めたのは、射水郡縄張役(測量係)に任ぜられた寛政7(1795)年、36歳の時ですが、以降、文化7(1810)年に至るまで、従事した業務は、検地や村絵図作成、開墾のための工事用測量など、すべて狭域の測量でした。

図9 「川口村宮袋村下絵図分間帳」5ページ
ページの中央付近に4つの環閉合が認められる。
外部リンク:高樹文庫「川口村宮袋村下絵図分間帳」
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図9はその中の一つ、享和2(1802)年に検地のための廻分間に伴って作成した野帳です。廻分間とは、田畑の面積を計測するために道線法で田畑の周囲の境界を確定させる方法で、必然的に環閉合が生じます。図の中ではさらに、中央付近で4つの環が網を形成していることがわかります。検地という地味な実務を高い精度で成し遂げようとする努力の中で、多角網の取り扱いに習熟していったとは考えられないでしょうか。
信由が加賀藩より三州測量を命じられたのは、文化7(1810)年に加賀藩へ提出した「射水郡大絵図」の精度が評価されてのことです。そして、射水郡大絵図の提出を求められたきっかけは、金沢城の火災により郡絵図が失われたためでした。つまり、金沢城の火災がなければ、信由は生涯、検地などを地道に続けていた可能性もあるわけです。
しかし、たとえそうであったとしても、実直であったと伝えられる信由は、与えられた測量業務を高い精度で地道にやり遂げたのではないでしょうか。事実、三州測量の後も多くの村絵図や検地に関する地図を残しています。信由は、しばしば伊能忠敬と並び称されますが、信由の測量人生は、学問的興味から地図作成を始めた伊能忠敬とかなり異なるものだったと言えます。

企画展「石黒4代の軌跡」2021年2月14日まで開催中(私は関係者ではありません)
ともあれ、信由は自己の才能に研鑽を積み重ねながら藩命に高い水準で応え、藩の中で認められるに至りました。その技術と名声を受け継いだ子・孫・曾孫は明治維新に至るまで加賀藩に重用され、藩の中枢に関わる重要な測量に従事します。信由とその子孫は、地図作成の技術だけではなく、水準測量など、藩政に必要なあらゆる測量に通じていました。江戸期に発達した日本独自の測量法を、4代にわたって完成させたと言ってもよいでしょう。
現在、新湊博物館で企画展「石黒4代の軌跡」が2月14日(日)まで開催されています。ここでは、信由以降4代が残した地図など、さまざまな測量成果を見ることができます。是非、足をお運びいただければ幸いです。
謝辞:
高木文庫からは石黒信由による絵図・野帳の画像の提供をいただきました。記して謝意を表します。
参考文献
射水市新湊博物館編「越中の偉人石黒信由 改訂版」156ページ
射水市新湊博物館の展示説明も一部参考にしました。
ほしかわ・けいすけ 滋賀県出身。京都大学農学研究科卒業後、総合地球環境学研究所、京都大学東南アジア研究所、同地域研究統合情報センターを経て着任。空間情報解析および農業土木を専門とする。測量士。