キルギスからの便り(7) 折り紙とものづくり
折り紙はすべての工程で丁寧に角を折れば美しく仕上がる。逆に一度でもどこかで手を抜いて雑な折り方をすれば、それ以後の手順に影響が出て、仕上がりが今一つになる。
これは何かに似ている。ものづくりだ。海外の子どもに折り紙を教えながら、日本のものづくりの現場が頭に浮かんだ。一つひとつの工程に丁寧に取り組むことで、満足いく仕上がりになる。日本人ならあえて言葉にしなくても理解できるこの共通認識が、折り紙という遊びに凝縮されている。子ども時代に遊びを通して得た認識は大人になっても無意識の中に根付き、ものづくりの現場で誰もがどの工程でも手を抜かず、美しい仕上がりを目指し、高品質の製品が生まれるという循環を生んだのではないか。
高校や大学で専門的な勉強をして研究にまい進する人がたくさんいたからこそ、日本は最先端技術を開発する国になったが、一方でものづくりの現場で手抜きや雑な仕事が横行していれば、新技術は形にならなかった。一部の優秀な頭脳ではなく、日本人皆が子どもの頃から育んできた感性が、日本を世界有数の工業立国にしたように思う。
折り紙は日本人にとって遊びであり娯楽、趣味だ。学校で成績がつく勉強ではない。幼い頃に家族や友人と一緒に楽しみながら覚え、時には一人で黙々と難しい作品に挑戦し、緻密な作業を重ねる。遊びには本来、目的や意図はない。だから無心になって取り組み、心から喜ぶ。折り紙だけでなく、多くの遊びを通して日本人は日本的な感性を磨いてきた。
日本企業にかつての勢いがなくなっている、信頼が揺らいでいる、国際化に追いついていないなどと聞くが、各社、各業界に事情があるのだろう。企業や組織は人の集まりである。競争力の源が社員一人一人のなかにあるとすれば、その一人一人のなかには、子どもの頃から培ってきた日本人の感性がある。学歴や経歴、資格のように目には見えないが、しまい込まれ、忘れられているかもしれないけれど皆が必ず持っている。すべての社員がその感性を抑え込まずに、磨き続けられる環境があったならどうだろう。かつての遊びのように仕事が無心になって取り組み、喜べるものであったなら。組織の力は無限大に伸びると思う。
無心になって折り、喜ぶと書いたが、様々な折り紙作品のなかでも、仕上がった時の喜びがひと際大きい作品は何だろうか。私が教えている2年生の子どもがこれまでにもっとも喜んだのは風船だ。
お雛様や鬼の顔などはあらかじめでき上がった作品を示しながら折り進めるので、子どもたちは仕上がりのイメージが念頭にある。だが風船だけは完成作品を見せずに折り進める。低学年には少々難しい手順だが、何とか折り終わった後「さあ、ここに息を吹き込むよ」と言って、私が膨らませてみせるとおどろきの表情を見せる。そして各自が自分の折り紙を膨らますと「わあ」と歓声を上げる。なかなか膨らまずに焦っている子どもには「両手で端を持って、もっと勢いよく吹いてごらん」とうながす。ついに膨らんだ時には、満面の笑みがこぼれる。私が風船を空中にポンポンと放ると、皆真似をして遊び始める。
子どもたちの風船が膨らんだ時、もっとも喜んでいるのは実は教えている私自身だ。自らの手で作り上げる喜びを感じてくれた姿を見れば、理屈抜きにうれしくなる。
「これは勉強です」などと言って難しい顔をしてみせるが、いやいや「アリガーミ」はやはり勉強ではない。大人も子どもも夢中になれる、日本が世界に誇る遊びだと思う。