【山根青鬼画業70周年展】14歳のデビューから今も現役で活動、これまでの歩みとエピソードを語る

少女漫画の「めだかちゃん」は修道院にいた

 上京後初の作品は1956(昭和31)年に講談社の少女向け雑誌「少女クラブ」で発表した「めだかちゃん」という少女漫画だ。タイトルを考えるのに大変苦労し、良い案が浮かばないので母に相談した。母はその頃、近所の修道院でアルバイトをしていた。その修道院にあだ名が「めだかちゃん」というかわいい子がいると聞き、それだ、と思ってタイトルにした。

 その後、講談社とは1958年から61年まで専属契約を結んだ。マネージャーをしていた父の采配だった。当時、多くの出版社から執筆依頼が殺到し、非常に忙しかったので、父は1社と契約すれば楽になると思ったらしい。だがそうはいかなかった。講談社は私たちにほぼすべての出版物で漫画を描かせ、ますます多忙になった。専属契約が切れると、再び他の出版社からも仕事が入り、2人ともアシスタントがいないから、死ぬかと思うほど大変な毎日になった。 

 だが出版社が「16ページで」と依頼してきたら父は「8ページで」と答え、カラーを頼まれたら1色にしてもらうなど、引き受ける仕事量を決めて私たちの仕事をちゃんと管理してくれていた。

「カゲマン」アニメでNHK教育テレビ放映

 漫画を描くときにはいつも奇抜なことを考えて人目を引くものにしようと思っている。いろんな人との付き合いや日々の生活の中でアイデアは生まれてくる。例えば1971年に毎日小学生新聞で連載が始まる際、何を描こうかと頭をひねっていたら、ふと子どもの頃の記憶がよみがえった。夕方、家への帰り道に足元から黒いものがいつまでもついてくることを不思議に思っていたのだ。その長い影を取り入れたのが「くろっぺ」だ。日刊だから大変な仕事だった。連載終了後に毎日新聞社に単行本にしてくれと頼んだが断られた。

 私はこの作品に自信があったから自費出版し、各新聞社や出版社など100社ほどに送った。売り込みである。どこからも返事はなく唯一、小学館だけから返事があった。探偵少年にしましょう、という提案を受けて始まったのが「名たんていカゲマン」である。

 1975年、同社の学年誌「小学3年生」での連載を皮切りに、その後4年生や2年生、「コロコロコミック」などで順次掲載がスタートした。毎月すべての学年誌別に描き分けるのだから工夫が必要だった。2年生は大きく分かりやすいコマ取りにし、4年生はもう少し大人っぽく、コロコロは青年向けに細かく描くなど学年誌に描くむずかしさを味わった。

 カゲマンは好評で、2001年からアニメーションとしてNHK教育テレビで約1年間放映された。私はオリジナルのキャラクターでやってほしいと言ったが、キャラクターが大幅に変更された。原作で主人公は三重丸のめがねをかけているが、アニメ版はかけていない。近眼は良くないという意向だったのだろう。めがねの三重丸は近眼の意味ではなくデザインだったのだが、近眼と受け取られていたようだ。だがアニメになったことで、かつて漫画を読んだ人たちから懐かしいと反響があったので結果的には良かったと思っている。

「のらくろ」執筆権の継承

 1989年(平成元年)2月、手塚先生が亡くなり、田河水泡先生とともに東久留米市のご自宅で行われたお通夜に出席した。応接間で田河先生がポツリといわれた。「君たち3人にのらくろを継承してほしい」と…。

 3人とは、山根青鬼、山根赤鬼、永田竹丸のことである。田河先生は、手塚先生が亡くなり「アトム」はどうなるのか、自分が亡き後「のらくろ」はどうなるのか、と不安感を持たれたようだ。私たち3人は、驚きと共に重責を感じたが、田河先生の「自分たちの『のらくろ』を描け」との言葉に勇気付けられ、「のらくろトリオ」として各々の「のらくろ」を描くようになる。

 同じ年の5月に、講談社、田河先生、青鬼、赤鬼、永田は「のらくろ執筆権継承」を正式に契約した。そしてその年の8月に行われた「山根青鬼・赤鬼・画業40周年記念パーティー」の会場において、田河水泡先生自らの声で「のらくろ執筆権の継承」を公式に発表された。

山根青鬼画業70周年展の会場風景

 少年漫画、少女漫画、貸本などさまざまなジャンルを手掛けてきたが、1コマ漫画なら1コマなりの線、大人物なら大人物の線という具合に、ジャンルによって意識して線を変えてきた。山根青鬼のキャラクターをずっと同じように続けず、少しずつ変化させることによって、読者に新鮮味を与えられたと思う。名前に関しても、先生からもらったペンネームは漢字だが、子どもが読みやすいようにと子ども向け漫画には平仮名を、「のらくろ」を描くときには漢字を使った。

 2009年、世界各国から漫画家、芸術家が中国に集結したときに、中国吉林動漫学院客員教授として任命された。学院は1万人以上の生徒を有し、あらゆる芸術関係を教えているが、私は漫画科において時々講義をしている。

 また2014年頃、漫画家のむらしんぼ氏の呼び掛けで「山根青鬼一門会」が発足した。全員が、プロの漫画家・画家・イラストレーター等であり、会員は30数名、それぞれに鬼名が付いている。青鬼を慕ってくれる人、作品が好きな人、ファンだった人たちが集まり、師弟関係はない。年に数回スケッチ会や美術館巡り、展覧会、ハイキング、カラオケ等を楽しんでいる。毎年1月末から2月3日の節分を挟んで2週間程度の「山根青鬼一門会展」を森下文化センターで開催するが、節分の当日は会員みんなが鬼のコスプレで豆撒きをする。

田河先生の教え「三猿の反対をきなさい」

 漫画家を目指す若者には、スマートフォンばかり見ないで本も読んでほしい。多くの人と会って、話を聞いて、あらゆるものを見てほしい。何事も自分で勝手に判断しないで、いろいろな人から知恵をもらうのがよい。

 田河先生からは「三猿の反対を行きなさい」と教えられた。見ざる聞かざる言わざるではなく、何でも見て聞いて質問しなさい、という意味だ。私はその言葉を信じて、いろんな所へ行って話を聞いてきた。そうして蓄えた経験すべてが知識になり、いざというときにぱっと頭に浮かんで仕事に生かされてくるものである。

やまね・あおおに
1935年東京・赤坂にて双生児の兄として生まれる。本名は山根忠。1945年母親の郷里、富山県泊町(現・朝日町)に疎開。1949年兄弟合作で「北日本少年新聞」に「北日坊や」を連載しデビューを飾る。1950年田河水泡から「青鬼」のペンネームを名付けられ、門下生となる。以降、少年誌・学年誌などで活躍。1989年田河水泡より「のらくろ」の執筆権を継承。2012年高志の国文学館に永久展示。公益社団法人日本漫画家協会理事。やなせたかし文化賞選定委員。

受賞歴
1979年日本漫画家協会優秀賞。1988年~読売国際漫画大賞優秀賞ほか8回受賞。1997年・2000年黒潮漫画大賞受賞。2000年オホーツク国際MAN画大賞。2009年富山県新川地域発展賞奨励賞。2010年日本漫画家協会特別賞。