とやまの土木-過去・現在・未来(15)地図に刻まれた富山の土木史

 「地図に残る仕事。」とは大成建設のキャッチフレーズですが、同社に限らず建設業界の方からよくお聞きします。もともとあるダム建設現場の所長さんが口にされた言葉をコピーライターの方が聞いて磨きをかけたものだとか。うまく表現したもので、建設以降に発行された地図にはその土木構造物が描き込まれ続けるわけです。今回はそんな「地図に残った仕事」を通じて土木が現在の富山をどのように作り上げてきたのか、いくつか例を見ていきましょう。

 国土地理院が発行する25,000分の1地形図や50,000分の1地形図は数年おきに版が改められ、書店などでは最新のものが販売されています。こうした改版は道路などの社会基盤施設や住宅の建設、市街地の再開発などによって姿を変えていく国土の変化に合わせて行われるのですが、もちろん旧い版の地図(「旧版地図」という)も国土地理院には残されており、その写しを買うこともできます(正確には謄本の交付)。この旧版地図を時代順に並べれば地域の変遷を読み取ることができるわけです。

地図1:小牧ダムの開発と庄川上流域の開発
国土地理院五万分の一地形図『八尾』(小牧周辺を抜粋)
明治44年測図大正11年鉄道補入、昭和5年修正測図、昭和28年応急修正

 地図1は庄川沿いの小牧周辺の旧版地図(50,000分の1『八尾』)を示しています。小牧にはもともと温泉街があっただけで道路も小牧で行き止まりになっていました。等高線からわかる通り小牧の上流で両岸は険しく切り立っており、砺波平野から五箇山に向かう主な交通は城端を起点としていたのです。

 昭和5年(1930年)修正測図の地形図ではそこに鉄道線路が現れます。小牧ダム建設のための資材を運ぶ貨物線で、当時、旧庄川町の青島まで伸びていた加越線と接続していました。線路の終点の横には当時アジア一の高さを誇った小牧ダムの堤体が出現しています。富山の近代土木史の大きな一ページである庄川の電源開発の幕開けです。 

地図2:旧国道8号線(北陸道)の移り変わり
国土地理院二万五千分の一地形図『富山』(願海寺周辺を抜粋)
明治43年測図昭和5年修正測図、昭和30年2回修正測量

 つぎに道路の移り変わりに目を移しましょう。地図2はあいの風とやま鉄道呉羽駅の少し西、旧8号線(古くは北陸道)が通っているところを25,000分の1『富山』から抜粋したものです。一番左の明治43年測図の地図の中央で北陸線と交差しながら曲がりくねっている道は北陸道で、地図記号からは明治以降も国道に指定されていたことが分かります。

地図3:近代の道路の構成要素
国土地理院『地理院地図』Web版(射水市太閤山付近を抜粋・加筆)

 江戸時代までの道路(街道)と近代的な道路の大きな違いの一つが地図上での形状です。近代的な道路は基本的に直線によって構成されています。道路の方向が変わる場所では自動車が曲がりやすいよう内接円(場合によってはクロソイド曲線)を入れます。円曲線が連続する場所では道がつねに曲がりくねって直線など関係ないように見えますが、ちゃんと背後には直線が隠れています(地図3)。別の観点から言えば、図上で直線と曲線からなる道路を設計し、それをそのまま現場に作るのが近代以降の道路なのです。

 それに対して近代以前の道路は直線や円曲線などは意識せず、現地の地形や事情に即して作り上げていったのでしょう。どうしてこんなにも曲がりくねっているのかといえば、集落の配置や田んぼの形状の結果なのかもしれませんね。これが昭和30年修正の地図では直線の近代的な道路に取って代わられ、旧北陸道は「1米以上町村道」あるいは「小径」として姿をとどめています。

写真1:今も残る旧北陸道
奥の架線はあいの風とやま鉄道のもの。線路の向こう側の部分は1970年代までの水田の区画整理によってなくなっています。

 写真1は今も残る旧北陸道の一部で、地図の中で鉄道と交差する手前の部分です。この道を江戸や明治の人々が行き交っていたのでしょうか。現在の富山は道路網がよく発達していてどこに行くのも便利ですが、それもこんな「国道」から始まったのですね。

 土木は時として地域の姿を大きく変容させます。地図4を見てください。越ノ潟周辺では昭和30年当時、高周波工業の工場が立地し、富山-新湊―高岡を結ぶ富山地鉄高岡線(のちの加越能鉄道⇒万葉線)が開通していましたが、まだ農漁村の風景を色濃く残していたことが分かります。

地図4:富山新港の開発
国土地理院二万五千分の一地形図『伏木』(富山新港周辺を抜粋)
昭和30年2回修正測量、昭和43年改測、昭和45年修正測量、昭和48年修正測量

 これが昭和43改測の地図では埋め立てと掘り込みにより形を変え始め、昭和48年にはほぼ現在の形になっています。富山新港の開発を盛り込んだ全国総合開発計画が始まったのは昭和37年ですから、わずか10年前後の間に地域の様相は一変し、その間に国土地理院の地図も3つの版を重ねることになったわけです。

地図5:黒部川河口付近の様子
国土地理院『地理院地図』Web版(黒部川河口付近を抜粋)

 さて、とりとめのない話を続けてきましたが、最後に富山新港工事よりもはるかに大規模に富山の姿を変えてきた土木の痕跡を地図の中に見つけてみましょう。地図5は黒部川河口付近の最新の地形図(Web版『地理院地図』)です。黒部川両岸に沿う道路にある特徴があるのに気づかれるでしょうか。堤防の天端が道路になっているのですが、河川敷すぐ横をずっと伸びるのではなく、上流に行くにつれ徐々に河川敷から離れ、途切れたり、鋭角に曲がってまた河川敷のすぐ横に戻ったりしています。

 これは「霞提」と呼ばれるもので、上流に向かって広がる八の字型の堤防を連ねたものです。堤防で川を完全に囲い込まないようにすることによって洪水時に水位が上昇しすぎないようにしているのです。写真2は飛騨のところの霞提です。手前の堤防の奥、川沿いにもう一つの堤防が見えるでしょうか。

写真2:黒部川河口左岸の霞提
奥の川沿いにもう一本堤防が見えます。

 現在、富山県の水田の30%以上が黒部川や常願寺川、庄川などの扇状地の上に存在していますが、もともと扇状地は川筋が洪水のたびに変わるなど、稲作に適した場所ではありませんでした。黒部川の川筋が多岐にわたって流れる様子は「四十八ヶ瀬」と表現され、地図5中央の「四十八ヶ瀬大橋」の名の由来となっています。

地図6:天明5年(1785年)の黒部川川筋の様子
『黒部市史』所収「天明5年(1785)の絵図(黒部川)(入善町 三日市嘉二雄氏所蔵)」に加筆

 天明5年(1785年)の川筋を示した地図6からは当時の黒部川が西入善駅から富山地鉄本線の間くらいの間を分岐と合流を繰り返して流れていたことが分かります。この川の流れを一本に抑え込み、扇状地を水田に変える土木事業が加賀藩の下で営々と行われてきました。地図5の中の霞提はその一つです。もちろん堤防だけで水田ができるわけではありません。水路の開削や水田の造成も併せて行われ、その結果、荒れ地だった黒部川扇状地は水田地帯に生まれ変わったのです。つまり地図の中の水田の記号もまた「地図に残った」土木事業といえるのでしょう。

 このように普段目にする風景のほぼすべては数百年前から続く土木の営みによって作り上げられてきたものです。特に近代以降、人間は地域・自然を大きく作り変える能力を身に着けてきました。その影響に留意しつつよりよく安全な地域をつくっていくことが求められています。

参考・引用文献
BREATH WORKS GALLERY〈2〉『大成建設/地図に残る仕事』15段 新聞広告シリーズ
URL: http://www.buresu.co.jp/cn43/cn94/cn95/pg471.html
黒部市史編纂委員会『黒部市史 / 自然編』黒部市

ほしかわ・けいすけ 

滋賀県出身。京都大学農学研究科卒業後、総合地球環境学研究所、京都大学東南アジア研究所、同地域研究統合情報センターを経て着任。空間情報解析および農業土木を専門とする。測量士。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です