とやまの土木-過去・現在・未来(14) 富山が生んだ測量技術者-石黒信由

富山県立大学工学部環境・社会基盤工学科准教授 星川 圭介 

 土木にも様々な分野がありますが、測量はそのすべての基礎となる分野です。まず設計図を描くためには正確な地形図が必要です。また設計図に描かれた構造物が実際の現場のどの位置にあたるのかを正確に特定してから施工しないと、たとえば橋梁の場合には両岸から延ばした橋げたが真ん中でつながらないという笑えない話になってしまいます。新幹線も新湊大橋も、高度な測量技術に支えられているのです。富山はそんな測量と縁の深い土地でもあります。

 富山と測量といえば、新田次郎の小説で映画にもなった『剱岳―点の記』を思い浮かべる方も多いかもしれませんが、小説の舞台のおよそ一世紀前、江戸後期に富山で活躍した測量技術者がいました。石黒信由(1760-1837年)です。

石黒信由の生家跡
現在は農業公園になっています。

 石黒信由は射水郡高木村の肝煎の家に生まれ、測量や和算、暦学を学び、加賀藩の下級役人として測量に従事しました。1803年には測量のために越中を訪れた伊能忠敬にも面会して技術指導を仰ぐとともに、越中での測量作業にも一部同行しています。当時の日本では各藩が財政立て直しのために農地の状況を示した絵図の作成に力を入れており、各地で石黒信由のような測量技術者が育っていたようです。なにやら現代の産業や学問にも通じるところがありますね。その中でも伊能忠敬と石黒信由は傑出した能力を有していました。

 伊能忠敬とその弟子たちが全国を測量して回った成果からは『大日本沿海輿地(よち)全図』あるいは『伊能図』と称する日本全体の地図が作成されました。一方、加賀・越中・能登で測量と地図作成を続けた石黒信由は、これら三国の内陸部まで詳細かつ正確に描き込んだ地図を残しています。そのうち『加越能三州郡分略絵図』はインターネットでも閲覧できるようになっているので、ぜひおなじみの地名を探してみてください。位置関係の正確さに驚かれるはずです。

射水市新湊博物館/高樹文庫「石黒信由関係資料」

新湊博物館
石黒信由が用いた道具や手法に関する資料、作成した地図が展示されています。

 伊能忠敬や石黒信由が地図作りに用いた測量技法は「道線法」と呼ばれるもので、彼らのオリジナルではなく当時の日本で『国絵図』などの広域図を作成する際に広く用いられていた技法でした。道線法では目標地点への方位と距離から現在地と目標地点の相対的な位置関係を特定するもので、特定した目標地点から次の目標地点の位置を定めるという作業を繰り返すことにより、次々と測量路線上の地点の位置を特定していきます。方位は羅針盤で求め、距離は伸び縮みしにくい鎖で測っていました。

 道線法は広域の測量を行う上でいくつかの欠点を抱えています。そのうちの一つはすべての区間において距離を測ること、もう一つは測定区間を細かく区切りながら距離と角度の測定を繰り返すことです。距離は角度に比べて測定が困難で大きな誤差を伴いがちです。数キロメートルもの距離を巻尺で図ることを想像してください。また、誤差は測定ごとに生じますから、測定回数を増やすと誤差も累積します。道線法で得られた成果は路線上の各地点から遠方の山などへの方位をもって補正されますが、それでも当時の一般的な広域図の精度は決して高いとは言えません。

道線法の概要:
目標点への方位と距離から目標点の位置を順次定めていきます。現在で類似の方法として「多角測量」というものが用いられていますが、測距測角の精度が桁違いです。

 こうした手法的な限界の中で、伊能忠敬や石黒信由はより精密な測量が行えるように羅針盤をはじめとする道具を工夫しました。また傾斜が距離測量の結果に与える影響を補正するために三角関数を用いるなど、数学をはじめとする幅広い知識を積極的に採り入れました。まさに二人の天才的な能力と血のにじむような努力により、きわめて高い精度を実現したのです。

 一方、同時期のヨーロッパでは誤差の生じやすい距離の測定を最小限に抑えた三角測量が発展していました。この方法は三角形の内角を測定することで図形の性質から距離を間接的に求めるもので、測位の精度を飛躍的に高めた発明です。また三角測量では最初に一辺数十キロメートルの大三角形の網で広い地域を覆って大三角形の頂点の座標を確定させてから、大三角形の中に小三角形の網を「入れ子」状に作って同様の測量を行うことにより、広域かつ密な測位を行うことができるという特徴も有しています。

三角測量の手順の概要:
距離を測定するのは太線の部分のみで、あとは3角形の内角を測って図形の性質から未知点の座標を求めていきます。最後にも距離を測定するのは精度の確認のため。

 三角測量はオランダの数学者スネリウス(1580-1626年)が実用化し、フランスの天文学者ピカール(1620-1682年)が測地法として確立したのち、イタリア出身でフランス天文台長に就任したカッシーニ(1625-1712年)とその子供たちの下で発展しました。もし石黒信由が三角測量に出会っていたら、三角測量をどのように発展させたでしょうか。

 明治維新ののち、諸々の西洋技術とともに日本にも三角測量が採り入れられ、日本独自の測量技術は姿を消します。石黒信由らの成果はいわば鎖国下における測量技術のガラパゴス的進化だったのかもしれません。しかしその発展を生んだ土壌と正確な地図がもたらした測量の重要性への理解は明治政府によっても引き継がれ、近代測量の急速な普及の礎となりました。明治5年、政府は早くも東京を対象とした三角測量に着手します。明治15年には全国を三角網で覆う事業が始まり、その中で生まれたいくつもの物語の一つが剱岳を巡るドラマだったのです。

呉羽山に置かれた一等三角点「越城山」(左)と天測台「右」

 明治26年、陸軍参謀本部陸地測量士 舘潔彦によって選点(測量標の設置場所を決めること)がなされました。天測台にはかつて天体観測による測量(天文測量)を行うための機材がおかれました。天文測量の成果を加えることで三角測量の精度を向上させていたのです。

 衛星測位の進展により、24時間常時自己の位置を高精度に測定する電子基準点がそれまでの三角点にとってかわりました。小学校の校庭の隅などに設置されています。見かけられたことはありませんか?

電子基準点「上平」(左)「砺波」(右)

 近年、測量・測位技術は急速な発展を見せており、日本国内であれば数ミリメートルから数センチメートルの精度で瞬時に3次元座標(緯度・経度・高さ)を得ることが可能になっています。こうした技術は土木の現場はもちろん、自動運転など一般の人々の暮らしに直接触れるところでも貢献の場を広げており、まさに国土交通省の掲げる「高精度測位社会」が到来しつつあるといってもよいでしょう。これは言うまでもなくより高い測量精度を求め続けた先人たちの営為の上に築かれたものです。

 富山にはそうした測量の歴史の痕跡や資料が数多く残されています。日頃は測量になじみのない方にもそうしたものに触れて少しでも測量に対する興味を持っていただけたら、測量教育に携わる者の端くれとして幸いに思います。

参考文献
川村博忠著『近代絵図と測量術』古今書院、1992年
高木菊三郎著『日本に於ける地図測量の発達に関する研究』風間書房、1966年

ほしかわ・けいすけ

滋賀県出身。京都大学農学研究科卒業後、総合地球環境学研究所、京都大学東南アジア研究所、同地域研究統合情報センターを経て着任。空間情報解析および農業土木を専門とする。測量士。

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