裁判員制度創設の苦い思い出

元衆議院議員・法務大臣 長勢 甚遠
義理人情に引きずられて

 5月21日付け読売新聞一面トップの見出しは、「裁判員制 良い影響 五十裁判長全員が評価」というものだった。裁判員制度が施行されて10年というので、同新聞が地裁の裁判長50人に実施したアンケート調査の結果である。

 この記事を読んで、裁判員制度創設の頃を思い出した。

 知らない人も多いと思うが、裁判員制度立案の責任者は何を隠そう私であった。これは私の政治家生活の汚点と考えている。義理人情に引きずられて信念を曲げた私の人間としての弱さを露呈した恥ずかしいことであった。

 このような役割を担うことになるとは考えてもいないことだった。当時、日本弁護士会連合会(日弁連)主導により、司法試験改革、法科大学院設置、裁判員制度導入など各般にわたる司法制度改革が進められていた。その一環として裁判員制度の導入の方針が閣議決定され、平成15年、具体的な立法内容を検討するために自民党の司法制度調査会に裁判員制度検討小委員会が設置された。

 自民党内で日弁連と連携して司法制度改革の中心となっていたのは保岡興治司法制度調査会長(故人・弁護士)である(司法制度改革の経過、内容は同氏が著された大部の著書に詳しく記されている)。保岡氏は自民党法務族のドンで自民党法務部会、司法制度調査会は同氏の掌中にあった。どういう事情かはわからないが、その保岡氏から裁判員制度検討小委員長就任を要請されたのが裁判員制度創設に関わることになった始まりである。

 保岡氏の意を受けて就任要請に来たのは但木法務省官房長(後に事務次官、検事総長)であった。私は即座に拒否した。自民党の法務族は弁護士出身議員などに特化しており、私は門外漢で、日弁連となんの縁もなかったから適任とは思われなかったし、何よりも市民に裁判をさせることとなる裁判員制度導入には反対であったからである。

 しかし、どういうわけか但木官房長は何度も頼みに来た。多分、裁判員制度導入には保守議員の反対が予想されたから、法務族だけで勝手に決めたと言われるのを避けるため、保守議員で党内に信用がある私を利用することに狙いを定めたのではないか、と思う。但木官房長は「裁判員制度の創設は内閣の方針として決定されており、その内容も決まっているので、特別難しい議論は何もない。小委員会は形式を整えるためだけのもので、小委員長が苦労することは何もない」と、盛んに力説していたことからもそれはうかがえる。

 彼らは小委員会で案をまとめてしまえば、法務関係に関心の少ない自民党内で大きな反対論は出なくなると踏んでいたと思われる。それまで法務関係の案件は、「難しいことを言うなあ」という具合で特段の議論もなく法務部会の結論のままに了承されるのが常だった。

 結局、小委員長就任を受け入れたのだが、それは但木官房長との個人的な縁にほだされてのものであったというほかない。

法務行政との不思議な縁

 私が法務関係に関わることになったのは、平成12年に衆院厚生労働委員長に推薦されたにもかかわらず、そのポストを断り、法務委員長に就任してからである。それがもとで引き続き法務副大臣、衆院法務委員会筆頭理事を務めることになった。それで法務省の国会対策を担当していた但木氏と付き合うことになり、入管定員の増、医療観察法の制定、ハンセン病訴訟問題処理などの解決に苦労を共にした(これらについては、平成28年10月31日付「法務行政との不思議な縁」で書いた)。

 但木氏とはお互いに気が合い心を許しあう仲になり、但木氏は何かにつけ私に相談に来るようになっていた。そんな但木氏の繰り返しの要請をむげに断り続けることはできなかったのである。

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